死の先に在るモノ

第7話「復讐者」(アヴェンジャー)≪前編≫

ここは東京XX市、とあるビルの一室の前、そこに俺達5人は立っていた。
まだ日の高い午後であるのに、このビルの周囲だけは薄暗くなっていた。
既に先遣隊の手で結界が張られ、人間が近づく事は出来ない状態にされていた。その作用であった。

「ここです。ここから負の感情が溢れてきます。明らかにデッドエンジェルの反応です!」

部下である大天使の言葉をセリーナは黙って聞きながら、そっとドアに耳を当て内部の様子を窺う。
不思議な事に、物音一つせず静まりかえっている。
だがこの扉の向こうには、その身をデッドエンジェルへと堕した『元』守護天使がいる事は紛れも無い事実だった。何しろ、気配を感じ取る能力が最も低かった俺でさえ、扉の向こうから溢れてくる負の感情をはっきりと認識できたのだからな……

セリーナはスチール製のドアのノブに手を掛ける。そして、ゆっくりと回す。
すると、何の抵抗も無くドアが開く。
訝しみながらもセリーナは部屋に滑り込む。
そして他のメンバーもそれに続き、最後に俺が部屋に入る。
入って気が付いたのだが、部屋の中は暗闇に近く、さらに凄まじく生臭い臭いが充満していた。
経験の無かった俺にはこの気分が悪くなる悪臭の正体が何であるのか、分からなかった。……多分、一生分からずに済めば幸せだっただろうな。

隊員の一人が緊張した面持ちで声を上げる。

「明かりを、点けます」

この時、『灯火』の能力を持った大天使が、魔力球(持続性魔力照明弾)を天井に出現させる。
室内の様子が俺達の目に飛び込んで来た。

「!! そ……そんな……」
「ひ、ひぃ!!」
「う、うわっ!!」
「く、ぐっ!!」
「あ、ああぁぁ!!」

セリーナと俺を含む5人から、5通りの悲鳴が漏れる。
『灯火』が点けられ、状況を把握した瞬間……誇張で無く、地獄のような、いや地獄そのものの光景が飛び込んで来た。

経験があるセリーナでさえ、たじろぐような……想像していた以上の凄惨な光景が展開されていた。
部屋一面、視界が朱に染まっている。
まるで赤い色がこの場を支配しているような印象さえ受けた。
そして折り重なったように倒れている死体……床だけではなく、壁といわず天井といわず真っ赤な、紅い『モノ』がべったりと吹き付けられたように付着し、そこかしこから少しずつしたたり落ちていた。
そして、滅茶苦茶に破壊され散乱した家具類……それは怒り狂った野獣が暴れたかのような……あるいは爆弾が炸裂して爆風が吹き荒れたような……そんな感じだった。
何故なら鋼線入りの窓ガラスが外側に向けて膨らむように大きく歪み、ガラス製の物が粉々に破壊されていたからな……

この時、俺の靴底が何か柔らかい『物』を踏んだような、嫌な感触が伝わってきた。
見ると、それは白灰色の物体だった。いや、俺はそれが一瞬何であるのか解らなかったが、すぐ側に転がっていた物を見て……俺の思考はまともに動く事を停止した。
……それが叩き割られた人間の頭であった事……その眼窩から眼球が飛び出し、糸でぶら下るように垂れ下がっていた。
しばらくして(それは俺の意識の上での話であって、実際の所は数秒しか経ってなかったらしい)俺が踏んだのが人間の脳漿だと理解した時……限界だった。
俺の体内から酸味の強い液体がこみ上げてきた。
だが、それをぎりぎりの所で無理矢理に飲み込む。
そして跡が付く程強く口を手で押さえ、この惨状を作り出した元凶と思われる女を見据える。
その女の周囲には、人間の……かつては人間であった、人間と呼ばれていたパーツが
散乱していた。
そしてその女は全身返り血に染まったまま、座り込んでいた。
返り血を拭おうともせず、微動だにせず……
一人の人間の男性を抱えて呆然と……焦点の合わない、輝きを失った瞳で……
その顔には、彼女が浴びたと思われる返り血が一筋、頬を伝って流れていた。
まるで涙のように……
その女が『元』守護天使であった事は背中の羽が証明していた。
だがその羽は深紅に染まり、さらに返り血を吸って赤の度合いを増していった。

「こいつが……デッドエンジェル……白鷺の……サキ……?」
「ええ……でも何か変ね……?」

セリーナはサキの顔に向けて手をかざす。すると、その顔が驚愕に彩られていく。

「信じられないわ! ……何という精神力……」

その声を聞いた隊員の一人が問い掛ける。

「隊長、この女がどうしたのですか?」
「分からない!? 自力でデッドエンジェルから復天したのよ!!」

珍しく興奮気味のセリーナの言葉に、隊員達から驚愕と感嘆の声が漏れる。

「なるほど、ロイ司令が『生かしたままの捕獲』を命じられたのは、この理由からだったのですね」

だが、俺はこの台詞の裏の意味に思い当たった時、愕然とした。
俺も『特務機関フェンリル』のメンバーがどんな境遇の持ち主が多いか、それはこの6年の間に理解していたつもりだ。
要するにだ、彼女を新しい手駒、あるいは捨て駒として自分と同じ境遇の『元』守護天使を狩らせるつもりなんだ。贖罪と言い包めて……。
しかしそれは余りにも哀れ過ぎるんじゃないか……それが俺の偽らざる想いだった。
もっとも、これは世間知らずの傲慢に近い、安っぽい同情だったのかもしれないがな。

「駄目ね。完全に心を凍らせてしまっている……捕獲には都合が良いけれど……」

様々な想いが渦巻いていた俺は、セリーナ達がサキに呼びかけていたのを上の空で眺めていた。

「レオン! 拘束用封冠を!」

突然俺の名を呼ばれ、はっとして慌てて答えた。

「りょ、了解!」

震える手でサキに拘束用の封冠を被せる。
手が震えていたのは、初めての任務という緊張感からだけではない、別の感情があったからだと思う。
その正体が何であったか……しばらく気が付かなかったが。
この時、サキは抵抗どころか身動ぎ一つせずにされるがままになっていた。
俺はゆっくり封冠を被せる。と、羽が消えた。それだけだった。
やけにあっさりと終わったな……それが俺の感想だった。

ただ俺の予想に反して、サキはそのまま座り込んで呆然としたまま、変化が確認出来なかった。
……確か、講習を受けた時の記憶では、拘束用の封冠を被せられた者はほぼ例外なく意識を失うはずだったが……と訝しんだ俺だったが、それはセリーナや他の大天使も同様だったようだ。

「!? もしかして、まだ意識があるの!? 普通なら……訓練されていない一般の守護天使が拘束用の封冠を被せられたら昏睡状態になってしまうはずなのに!」

その言葉を言い終えたか終えないかの瞬間、サキは意識を失う。

「流石にこれ以上は無理でしたか……。しかし、大した物ですな。このサキという女は」

何故かその台詞に心の中で反発を覚えながらも、セリーナに促されて俺はサキを抱き上げた。

「魔王レベル10のデッドエンジェル、白鷺のサキの捕獲に成功。以上任務完了……これらはわたくしとレオンとで彼女を裁判所に連れて行くわ。あなた達は、後始末と人間界の戸籍データの改竄をよろしくお願いするわね」

その言葉は、俺にはとてもありがたかった。
こいつらが悪い奴らだとは思わないが、住む世界が違う……そんな感じだった。
一緒にいると、何故だか……特にサキという女性の事に触れられた時……反発を感じている俺が居たんだ。


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