翌日、サキは官舎の前で俺を待っていた。
あの後、セリーナの元を辞した俺は、教官のオフィスルームで個人的に特訓を受けていた。
ここ数年で腑抜けになっていた俺は、諜報術の基礎から復習させられたんだ。
結局、特訓は深夜にまで及んだ。その為、朝は辛い物があった。だが、サキの苦悩はこんな物じゃない……自分にそう言い聞かせて、奮い立たせていた。
(この夜の特訓については……まあ、色々バレるとヤバイ事もあるんで、いずれ時を改めて語ろうかと思う。念の為言っておくが、色っぽい・艶っぽい行為・話題は全く無かった事を明記しておくからな!)
そして、俺は眠そうな素振りを全く見せず、サキに問い掛ける。我ながら、この時の精神力と気力は尋常な物ではなかった……今でもそう思える。
「答えは見つかったか?」
サキはゆっくりと首を縦に振る。
「俺達と一緒に来るか? それとも……」
「……誰かが……やらなければ……ならない事なのでしょう……?」
それはつまり、『特務機関フェンリル』に入る事を承諾した、という事だ。
「そうか……辛いぞ……」
「……覚悟は……出来ている……つもり……」
彼女は、それを決断するまでにどれほど迷ったのだろうか? それを想うと、胸が締め付けられるような感覚に囚われた。いや、それとも彼女も気付いていたのだろうか? 選択肢など存在しないという事が……
感情を凍らせた、サキのその表情からは、苦悩の跡を窺い知る事は出来なかった。
俺達が訓練所に来た時には、当然セリーナも準備万端で待っていた。俺の後ろにいるサキの姿を認めると、微かに微笑む。サキが『戦う』事を選んだ場合はここに連れて来る事になっていたんだ。
「逃げ出さなかったのは感心ね。でも……」
訓練用の剣を構えたサキに対しセリーナは、そこまでは笑みを浮かべながら言ったが、一転厳しい顔つきになる。
「わたくしの訓練を受けたら、もう後戻りは出来ないわよ? ……あなたは『一生監獄暮らしをしていたほうが良かった』……なんて思う事が、これから度々あるはずよ。断言してもいいわ。それでも……」
「……誰かが……しなければならない事でしょう……? ……もう……誰も……私のような辛い目に……遭わせたくない……から……」
「そこまで言ったからには、泣き言は許さないわよ」
二人の訓練は、初っ端から剣を打ち合うという、実戦さながらの激しい物だった。
サキの剣はそのほとんどが空を切り、逆にセリーナの剣はサキの急所を的確に狙って繰り出されていた。
それを咄嗟の判断と本能的な反射神経のみで見切って、あるいは剣でガードしていたサキの動きも、つい先日まで監獄に繋がれていたとは信じられない程だった。
刃を潰した訓練用の剣とはいえ、十分に殺傷能力がある。
それを何の躊躇いもなく、軽々と振り回す二人の実力の程が伺えた。
素人目にはどちらが優勢か判断が付かなかっただろう。だが、俺にはセリーナが優勢に見えた。セリーナが全く動じていないのに対し、サキの額には僅かに汗が浮き出ていたからな。……もっとも、それはそれで十分に驚嘆すべき事だったのだが。
そして、サキがセリーナの剣を何回目かに受けたその瞬間だった。剣でガードしたサキだったが、セリーナが足払いをかける。それを予期していなかったサキは、辛うじて踏ん張るも耐え切れずにバランスを崩す。この隙を逃さずセリーナは、大きく剣を横薙ぎに振るう。咄嗟に剣の腹でガードしたサキだったが耐え切れず、そのまま吹き飛ばされて倒れ伏す。
倒れたサキを見下ろして凛とした声を張り上げて叱咤する。
「立ちなさい!! 今は寝てていい時間じゃないわよ!!」
サキはセリーナを睨み付けるように見据えると、ゆっくり起き上がり剣を構える。
そのサキの闘志にセリーナの口から笑みがこぼれる。
そのセリーナの変貌に、怪訝な表情を浮かべるサキ。それでも戦闘態勢を崩さないのは流石と言うべきか。
「全く駄目ね。剣を貸してみなさい」
セリーナは戦闘の構えを解くと、サキの剣を取り上げて左手に持つ。怪訝な顔をしている俺とサキの目の前で、自身の剣を右手に持って剣同士を軽く打ち合わせる。すると驚いた事に、サキの剣が折れたんだ。あまりにも呆気なく……
サキの表情は乏しかったが、驚いている気配が伝わってきた。
「サキ、あなたは剣を力任せに振り回し過ぎ。あれでは棍棒でも使ったほうが、まだマシって物だわ」
サキの目に悔しそうな光が灯るが、事実なので全く言い返せなかった。
しかし、この時セリーナは言わなかったが、セリーナの剣も大きく刃こぼれしていたんだ。さらには、サキの剣を受けた時、あまりの重さと衝撃に思わず手が痺れてしまった程であった。勿論、顔には出さなかったし、勘の良いサキに悟られないようにするのに苦労したようだ。それ以後はまともに受けずに、空振りさせる事だけに専念させたらしい。それでも7級神の自分を手こずらせたサキの身体能力に内心舌を巻いていた。なぜなら、まだ訓練を始めたばかりで『素人同然』なのだ。……ダイヤの原石……荒削りだが、強く・美しく・それでいて脆い……今のサキには、その言葉がぴったり当てはまる、セリーナは内心思ったようだった(これは、この日の訓練後にセリーナ本人から聞いた事だ)。
だが、そんな事はおくびにも出さず、サキに言い放つ。俺はちょっとやり過ぎなんじゃないか、そう思う程だった。これに(内心はともかく)全く文句を言わなかったサキの精神力も、俺の想像を超えていた。
「『敵を知り己を知れば百戦危うからず』……この言葉、聞いた事くらいはあるわよね? まず、あなたに必要なのは、『己を知る』事。今ので少しは理解できたでしょう? 自分がどんなに小さな存在か」
その挑発的な言葉に、サキは唇を噛み締めてセリーナの顔を見据える。
本格的な特訓を始める為に……と、前置きして、セリーナは声を張り上げる。
「まずは基礎から! 腕立て伏せ500回始め! その後は走り込み25km! まずは、これを交互に4回繰り返す事!!」
「おい、セリーナ」
見守っていた俺は、休憩時間にセリーナに話しかけた。余りにもサキに辛くあたる必然性が見出せなかったんだ。肝心のサキはというと、疲労のあまり休憩所のベンチに倒れた込んだまま、眠ってしまっている。俺は、そんなサキに毛布をかけながら言った。
肩で息をしていたセリーナは、黙って顔を上げる。その顔は『話をするなら手短にね』と語っていた。
「なあ、なんで必要以上に辛く当たるんだ? しかもサキにだけ……」
「ねえ、レオン。彼女は凄いわ。素晴らしい逸材と言い換えてもいいわ。このまま成長したら二年後、いいえ、遅くとも一年後には、わたくしはサキに全く勝てなくなる……」
「何!? いや、確かにそうかもしれんな。しかし、だったら何故? ……!! まさか……」
「そうよ。あなたにしては勘が鈍ったわね。でも……ちょっと辛いわね。憎まれ役っていうのも」
「何故そこまでする必要があるんだ!?」
「時間が無いの。手っ取り早く彼女を一人前の戦士とするのに必要なのは、『優しい先生』ではなく『鬼教官』よ。この程度のしごきで潰れてしまう程度では、彼女も……サキも、そこまでの者。生き残る事など夢の又夢……文字通りの意味でね」
確かにその通りかもしれん。逆に俺なんかは、時間をかけて諜報部員として育成された。その意味では恵まれた環境だったのかもしれないが。
ともかく、彼女にとっては、このような特訓に耐える事のできる心の強さが無くては、『特務機関フェンリル』の構成員として、暗殺者としてやっていく事は困難だろう。そして、もう一つの理由……
「それに、敵は身近にいたほうが敵意を感じやすいでしょ? 『真に憎き者は未だ見ぬ敵より鬼教官』ってね。柄じゃないって事は分かっているけどね。でも、憎しみが人を救う、なんて……逆説的だけど、ちょっと格好いいと思わない?」
「それが……お前が一番最初にサキに渡した剣に……細工がしてあった理由か?」
セリーナは驚いた顔で俺を見据えた。そして視線を逸らすと小さく溜め息をつく。
「何時、分かったの?」
「ほんの一時間前……だな。まあ、あの時から少々腑に落ちない所があったしな。分かっていたんだろう? 剣を渡したら、サキが自殺を図りかねない、って事はさ」
「……何事も最初が肝心よ。彼女の責任感を利用させてもらうような形になってしまったのは、わたくしてしても辛い所だけれど……彼女の未練は完全に断ち切ってしまわないと……。辛い目に遭った者にとって、糖蜜の如く甘く感じるからね。『死の誘惑』ってやつは」
つまりだ……サキの後悔と自責の念を少しでも紛らわす為に、あえて憎まれ役を引き受けたんだ。
自分を虐げるセリーナに対するサキの憎しみが……サキ自身を救う事になるとは……
俺は、この皮肉な現実に言葉も無かった。さらに続けられたセリーナの言葉が、俺のセリーナへの敬意を決定的な物とした。
「だから、わたくしが出来ない分、サキへのフォローも宜しくね。サキが『自分の味方はレオンしかいない』、なんて思うように仕向けたのだしね。彼女もこれで男性恐怖症からも立ち直ってくれると、そのきっかけになってくれれば、ありがたいのだけれど……」