俺はある建物の門の前で足を止めた。
サキは不審気な瞳でこちらを見ていた。俺は懐からホルダーが付いた鍵を取り出すと放り投げる。サキは咄嗟にそれを受け止め、手元の鍵と俺とを戸惑ったように見比べていた。
「そのホルダーに書いてある数字が部屋番号だ。君の私物は全て人間界からこの官舎の君の自室に移してあるそうだ。部屋のテーブルの上には『官舎利用の規約』と書かれている冊子が置いてあるから、詳しくはそれを読んでくれ。ああ、施設課には話を付けてあるから、その鍵を見せれば、官舎の設備は自由に使用できるぜ。あと、何か困った事があったら俺かセリーナに、君の教官役の女に相談してくれ」
ここは特務機関隊員の為の官舎の前だった。
当惑した表情で鍵に目を落しながら、俺の話を聞いていたサキは、やっとの事で俺に話しかけてくれた。サキにとって、それは十分過ぎる程の前進だった。それとも、サキにとっての俺の第一印象が、さほど悪い物では無かった、って事かな?
「……あなたは……何故……私に……構うの……?」
怪訝な表情のサキに、俺は微笑みながら答えた。
「やっと話しかけてくれたな。これが俺の仕事だしな。君の事に関して、俺は担当官として一切の責任を負う事になっているんだ」
「……そう……なんだ……」
その言葉の響きに、少々の落胆といった感情が篭っていたのを感じた。どうやら、『単なる仕事で自分と接しているだけ』、そう思われてしまったようだ。
俺は、そんなサキに気にかかっていた事を問い質した。少しでも迷いを吹っ切れる手助けになれば……そう思ってな。迷いと、心の隙を抱えたままだと……心を強く持てなければ、その力に振り回されて飲み込まれてしまう……そんな危なっかしさが、俺に柄でもない事をさせたのかもしれん。
「ところで、自分の実力は理解しているか?」
「……よく……わからない……」
「君が持っている力は強大だ。それが無理矢理引き出された物だったとしてもな。でも、それを使いこなせなければ『実力がある』とは言えないぜ」
「…………」
サキは、その言葉を当惑し、警戒した面持ちで聞いていたようだった。突然何を言い出すのだろう、その瞳はそう語っていた。
その反応に、俺はは苦笑気味に言葉を続ける。
「こんな話、聞いた事無いか? 『切れない刀は鈍刀だ。しかし切れ過ぎる刀も鈍刀だ』って言葉」
「……私が……切れ過ぎる刀だと……言うの……?」
だが、俺はその問いには直接答えず、更なる問いかけをサキに課した。直接答えを教えても良かったが、自分で考えさせて結論を導かせた方が確実に物にできる。……この教え方は、俺の教官だった大天使のやり方でもあったんだ……
「サキ、君は既に大きな力を持っている。俺を大きく上回る程の……な。でも今戦えば、間違いなく俺が勝つ。君が弱いのは何故だと思う? 何が足りないか理解しているかな?」
「……経験……」
「そうだ。それと『力の使い方』をよく分かっていない事……言い換えれば、君は経験と修行を積んで力の使い方を知れば、大きな強さを、『切り過ぎない刀』を手に入れる事が出来る。俺が保証するよ」
この時、『サキの為という大義名分』を得ていた俺は、彼女の不安を取り除くためとの理由から調子の良い事を続けた。無論、第三者に過ぎない俺がサキの力が如何こう言う事なんて、おこがましい事この上なかったんだがな。
惚れた弱味か……ひょっとしたら、サキに対して精神的に優位に立ちたかったのかもな。
ただ、サキは俺の言葉によって、幾分かは気が楽になったようだ。それが救いと言えば、救いだったかな。
「でも、ま、何があっても、俺は君の味方だからな。これは仕事抜きでだ」
「!!……あ……ありがとう……私……まだあなたの名前……聞いていない……」
「俺の名はレオン。伝書鳩のレオンだ。よろしくな」
「……レオンさん……」
「レオンで、呼び捨てで構わないよ。ともかく、今日は休んでくれ。明日の8時に迎えに来るから、もし俺達と共に戦う気があるのであれば、待ってるからな」
そこまで言って、サキに背を向けるようとした俺に、サキが声を掛ける。
「……待って、レオン……もう一つだけ……聞かせて……私は何故剣を持って……何と戦うの……?」
サキがそんな疑問を抱くのも当然の事だった。そこに思い至らなかった俺は絶句し、思わず口篭ってしまった。本当の事を言って良い物だろうか?
だが、躊躇は十数秒程度だった。サキの真摯な瞳に絆されるように、俺は語り始めた。
『守護天使や人間に仇なす存在へと堕ちた者を極秘裏に始末する』という俺の説明を聞いたサキは、流石にショックを隠せなかったようだ。勿論、特務機関の名前と『始末』する相手が『元守護天使』となる事もある……という機密情報は伏せたが。しかし、勘の良いサキの事だ。その事は察していたかもしれない。
だが、彼女も理解したようだった。これが……主人を護る事の出来なかった守護天使の末路だって事を。
「先刻も言ったが……もう誰にも悲しい思いをさせない、その為に力を使う……そう思わなければやっていけない仕事だ。俺達の活動が公にされる事も……まして、賞賛される事も無い。決してな。だからこの仕事を選ぶか、一生監獄で暮らす事を望むか……監獄に戻るのであれ、俺達と仕事をするのであれ、明日の8時にここで待っていてくれ。結論は、その時でいい」
今度こそ、サキの元から歩き去る。サキが俺の背を複雑な想いで、半ばすがるような瞳で見ているような視線を感じていた。
だが、俺はその視線を振り切るように、足早に歩き去る。後は彼女自身が決断しなくてはならない事だった。それでも俺は、彼女に酷な選択を強いてしまった自分自身に、苛立ちを感じていた。
どちらにしても……荊の道を歩み続ける事しか、選択肢が存在し得なかったとはいえ、な……。
俺は、その足でセリーナの新しい仕事場……特務機関本部にある一室、隊長・参謀職の者に与えられたオフィスルームへ出向いた。
ノックをして俺である事を告げる。
すると、即座に返答が返って来た。まるで俺がここに来る事を予測していたかのようであった。
俺がそのドアを開けると、部屋の中には段ボールがうず高く積まれ、そこから紙の束が溢れ出ていた。さらにプリンターが引っ切り無しに印刷された用紙を吐き出し、それとも相まって、文字通り足の踏み場も無いような状態であった。
俺を迎えてくれたセリーナの笑顔が……獲物を見付けた猛禽の笑みに見えたのは、俺の気のせいでは無いはずだ。
「なあ、セリーナ。実はサキとな……」
俺はセリーナに先んじて声を掛け、先刻のサキとのやり取りのあらましを聞かせる。
そして、サキに特務機関の仕事の事を説明した場面に話が及んだ時、セリーナの眉が跳ね上がった。
険しい顔で、何か捲し立てそうな剣幕のセリーナを制し、俺は言葉を続ける。
「ああ、博打のような事になってしまった事は悪かった。それでも、曲りなりにも道を示す事が出来れば、彼女は幾分かは救われるんじゃないかな。俺と話した事で、少しは生きる気力が回復したんじゃないかと、まあそんな感触を持ったな。安易な……もう滅多な事はしない、希望的観測かもしれんが、俺はサキを信じる。それにさ、結局は話さなければならないだろう? 仕事の事は」
セリーナは、怒りから一転した複雑な顔で俺を見ていた。
その表情には、そこまでサキを信じられる俺への羨望と、少々の呆れが入っていたように思う。
「全く……信じられない、というか……時々あなたの底が見えない事があるわ。確かにサキに特務機関の仕事の概要を教えた事が吉と出るか凶と出るか、蓋を開けてみないと分からないけどね。もし事実を知らせなければ、騙すような形で特務機関に引き込むような形になったのかも知れないし。あのタイプの娘は、騙されたと感じたら本気で怒りそうだし……」
半ば独り言のようにつぶやいていたセリーナの口調は、自分自身を納得させているようでもあった。
「……分かったわ。確かに、あなたの言った通り……結果としてはこれで良かったかもしれないわね。覚悟を決めさせる、という面ではね。もっとも、裏目に出たら始末書だけじゃ済まないかもしれないけど……」
俺は思わず答えに詰まった。
でも、俺はサキを信用してもいい、そう確信していた。あの瞳は、まだ生きる事を諦めてはいない。そんな瞳だった。
思えば、これが俺の一世一代の賭けだった。
慌てて話題を逸らすように、この場所に来た用件を告げる。
これは、セリーナから以前に誘われ続けていた事だったんだ。以前は無気力状態だったんで、それ所では無かったが。
「俺、十級神への昇級試験受ける。確か、正式な隊員になったサキには、本部とのパイプ役の補佐官兼メッセンジャーが配属される予定だったよな。それで、そのパートナーに十級神以上を以ってする、と……これで間違いないよな?」
「ええ、間違いないわ。あなたもようやく気力を取り戻してくれたのね」
「ああ、色々と心配と苦労をかけたな。今まで俺の事を見捨てないでいてくれて、ありがとうな」
俺は、万感の想いを込めた感謝の言葉を送った。
それに対し、セリーナは照れたように苦笑するだけだったが。
「だから……『お偉方』への推薦状と『教官』への紹介状、書いてくれないか?」
「了解したわ。彼女の担当官という立場なら、引き続いて彼女のパートナーとなる価値は十分以上ね。十級神への試験、頑張ってね。その代わり……言わなくても分かるわね?」
セリーナの瞳は、悪戯っぽい、してやったりという感情を浮かべていた。
セリーナの問い掛けは、疑問系の形を取っていたが、明らかに要求であった。
俺は仕方なく、彼女が望む答えを口に出していた。
「了解……さっさとこの書類の整理、終わらせようぜ……」