夜の森の状況設定を解除し、再びしばらく休ませると、クリムはアズマを何もなくなった金属質の部屋に壁からじゅうぶん離して立たせた。
「そこでじっとしていなさい。絶対、動かないこと」
そう告げると、アズマは明らかになにもわからない様子ながら、すなおに従った。
クリムは鞭を手にし、アズマから距離を取って、向かい合った。その間、およそ5メートル。
そして、鞭を握った右手を大きく動かしはじめた。
——ひゅぅう・・・ひゅんん・・・!! ・・・ひゅん、ぅん!!
単に空中を振り回すだけに見えた……。だが、それは驚嘆してしかるべきテクニックだった。なにしろ、一度として床や壁に打ちつけて動きを止めることなく、空中を飛び続けるのだ。その軌道は、まさに縦横無尽自由自在——立っているアズマの右、左、前方、それどころか後ろでまで、鞭の作る風の音がしていた。
その通り、彼女の周囲すべてを飛び回りながら、決してアズマに当たることもない。
さらにその鞭の動きも風鳴りも、どんどん速くなっていく・・・。
鞭という武器はふつうの人間が使ってさえ、熟練すればその先端の最高スピードは音速を超える。まして、特務機関フェンリルでも随一の鞭使い、蠍のクリムゾンの手練の技はスピードのみならず、その動きをも併せて、もはや常人の想像の及ぶところではない。
ついにあまりのスピードに、その鮮やかな紅い色の鞭が目に見えなくなる。
いや、わずかながらまだ見えてはいる。と言うより、猛スピードの鞭の赤い色が空中に流れ、空気にかすかに赤い色でもついたようである。あるいは、あたかも赤い霧か霞でも出て、それを通して向こうの風景を見でもしているかののごとく、まわりのどこを見まわしても、うっすらと赤色がかって見える。
そう、気がつくと、アズマは薄い赤い霧につつまれているようなものだった。
ただし、この霧は辺りに静寂をもたらすものではなく、一つの音をまわりで響かせつづけている。絶え間ない空気を切り裂く音が・・・。
・・・ひゅん! ・・・ひゅん! ・・・ひゅん! ・・・ひゅん! ・・・
——紅い霧(スカーレット・ミスト)
当たれば一撃で相手を打ち倒す勢いで、しかし、決して当てることなく絶えず動かし続ける鞭が相手の周囲すべてをそっくりおおう・・・。言うなれば、飛ぶ鞭の軌道で形作られる結界の中に相手を封じ込めてしまうという、クリムの絶技の一つである。
この技に囚われた敵がそこからとっさの判断で脱出を試みても、まずまちがいなく失敗することになる。なぜなら、ここから抜けださんと鞭の嵐の間隙を突こうとしても、肉眼ではほとんど視認できず、ために、耳を頼りに鞭の風切り音から離れて動こうとする。だが、超音速の鞭が音の聞こえるところにはもはや決してない以上、その判断も初めから誤っているのだ。
かと言って、いつまでもただじっとしていられるものでもない。言うまでもなく、クリムがその気になれば、鞭の軌道をほんの少し変えるだけで、その先端についた巨大な針で、相手を360度の全方位からまさしく全身を切り刻むことも可能であり、それは当の相手には聞こえる風鳴りと共に、じかに肌で感じることとして明らかだからだ。
実際、この技の『紅い霧(スカーレット・ミスト)』と言われる所以は、敵のまわりをおおう赤い鞭の残像という今の第1段階ばかりではなく、次の第2の、そして、最終段階として、切り裂かれた敵の全身から吹き出し、飛び散った血が空中に舞うそのありさまをも称していたのである。
もっとも、今は鞭の先端についているのは訓練用の先の丸まった針であって、仮に誤って当たったとしても、ひどい傷をつけることはないが。
しかし、そもそも敵を倒すだけなら、わざわざこんな持ってまわったやり方をとる必要もない。これはもともと生きたまま相手を確保する——それも、なるべく傷つけずにということが求められる場合の技だった。相手の戦意を喪失させ、抵抗の意志をくじくのをいちばんの目的としたものなのであった。
いったんこの状態に陥ったとき、ふつうの者はもはや動くに動けず、しかし、時が経つにつれ、確実に気力を削られていく・・・。相手に与えるそういう精神的なプレッシャーとしては、訓練用の針をつけた今の場合でもほとんど変わることはない。
それをこの少女は・・・。
(——やっぱりね・・・)
イタチのアズマの顔には、なんの動揺も焦りも浮かんではいなかった。単に内心を隠して、もしくは、表情に出ないだけというのではない。しんから平然としているのだ。荒れ狂う鞭の軌道の内部で、ごく自然にその場にたたずんでいる。
おそらくクリムにはじめ言われたので、ただそのとおりじっとしているだけなのであろう。
これは、冷静とか度胸がいいとかいうのとは違う。
(わかってないんだわ、危険が——いえもちろん、当たればどうなるか、ということは頭では理解している。でも、それが危険を感じる感覚には、そのままつながってはいかない。その回路がひとつ外れている・・・)
クリムはアズマの落ちついた、というより、何の変化もしない顔や目の色をあらためて見た。
(薄い膜一枚隔てて、現実と対しているようなものね・・・。この子にとって、まだ実現していない危険性は、リアルな恐怖じゃない。——もし、そんなこの子が感じるものがあるとしたら、それはもっと直截的な・・・)
そのとき、先刻パーティ会場で、不注意でやけどを負ったときのアズマの顔が不意に脳裏によみがえった。
気に留めて判断することなく、無意識にごくふつうに解釈して見過ごしてしまっていたが・・・考えてみれば、この少女の場合は違うはずなのだった。
(そうか・・・あれは、自分の失敗が恥ずかしかったり情けなくて、泣いたわけじゃないわね。ただ痛かったから、涙が出ただけ。反射のようなもの——でも、だとしても・・・)
赤い霧が揺らめいた。いや、わずかに動いたようだった・・・。
——ピッ! ピシ! ピシッ!!
「え・・・! あっ・・・あ・・・?」
一瞬にして、着物からのぞいたむき出しの腕、首すじ、袴の上からふとももと、アズマの身体の3ヶ所に衝撃が走った。それははじめ正体のわからないショックだったが、やがてじーんという痛みに変わって、脳髄に響いてきた。
とがっていない訓練用の針、さらに、深刻なダメージをあたえないよう注意してかすらせた程度である。だが、それでも、痛みじたいはたしかに存在した。
おどろき、とまどいといった反応の他に、このとき、アズマの瞳にはじめてはっきりとした感情らしきものが現れた。だが、それは恐怖や怒りなどとは少し異なっていた。より正確なところは、『不快感』というべきものだ。それも、ごく生理的な・・・。
(少なくとも・・・痛いのは、この子だっていやなわけだわ)
——ピシッ! ・・・ビッ! ビシッ!!
つづけて、またほとんど同時にアズマの身体のあちこちで、鞭が躍った。
「——あっ・・・ぁあ・・・クリムさま、あ、あの・・・」
柳眉を寄せて、それでも、この痛みをあたえている当のクリムに対してあいかわらず怒りもふくまぬ、ただ問いかけるような助けを乞うような視線をアズマは送ってきた。
こうなっても、まだ怒りがわかないのはともかくとしても、おのれで判断することもしない。いまだに、先ほど自分に動くなといわれたことに囚われている——そう思い当たると、クリムはいらだたしげにアズマを見やり、告げた。
「アズマ」
その目も声も、今までになく冷たい。
「いやなら——よけなさい!」
言われて、アズマははじめてまわりに目をこらした。
——ビシッ! ビシッッ!!
だが、見えない。よけられない。
「・・・あ・・・あ・・・」
それどころか、逃げようとしてもどこにも逃げ場のないことにようやく気づいたように、おろおろとあたりを見まわした。
追いつめられた小動物のようなおびえにも似た影がアズマの顔にさす。
(正確には、これもまだ恐怖感じゃなくて、嫌悪感や不快感というところなんだろうけど——反応としては、わるくない。これなら・・・)
冷静にアズマを観察する一方、一瞬たりと鞭を振るう手は休めず、さらに容赦ない。
——ビシッ! バシッッ!!
「・・・ああっっ!!」
これまでより強くクリムは打ってみた。たまらず、苦痛の声がアズマの口からこぼれる。
しかし、逃げることのできないアズマはとうとう両手で頭をおおって、しゃがみ込んでしまった。
その背をさらに鞭が襲う。
——ビシッ! バシッッ!!
「うっ・・・! あっっ・・・!!」
当たるたび、えびがはねるように瞬間身をのけぞらせはするものの、アズマはその体勢で、その場から動こうとせず、ただいやいやをするように頭を抱えたままかぶりを振った。
「・・・」
クリムは一度大きく振り上げるようにしたのを最後に、動かす腕を止めた。ひゅうぅぅんん、んん・・・! 尾を引いて風切り音がやむとともに、赤い霧はさっと晴れた。そして、幾重もの輪になって、鞭は彼女の手の中に収まる。
やめたのは、さすがにかわいそうになった——と言うよりは、これ以上続けても無意味とさとったからだった。
(だめね——いやがってることは確かだけど、この程度の痛みでは、これ以上の反応を引き出すことはできそうにないわ・・・かと言って、これより強く打ってたりしたら、この子の体力ではもたない。効果が出る前に、倒れちゃうでしょう・・・。痛みを大きくするために実戦用の針に替えたら、体にあたえるダメージがシャレにならないし・・・)
いとぐちはつかんだ。だが、このまま押しすすめることはできない。
ようやく解放されたのが分かって安堵したのか、頭をかばっていた両手を床について、肩で大きく息をしているアズマをクリムは見下ろした。
(どうしたものかしらね・・・?)