闇の中の限られた光——
うっそうと生い茂る枝々が厚く折り重なり、天井のようになって空をおおい隠している。その一部のみ天窓のごとくわずかに開いた部分から、ちょうど明るい月がのぞき、暗い地面に光を投げかけていた。
その光に浮かび上がる人影——一本の大木の前に、こんな場所にはあまりにも場違いなイブニングドレス姿の女が立っている。
ふさわしくないと言えば、その格好のひじまである長手袋の手ににぎられているのが長い鞭というのも、これもまた、そぐわないことこのうえない——はずだが、この女性に限っては、その取り合わせが何か妙に似合った。
身にまとうドレスの紫色は暗がりとまぎれるようだが、むき出しの肩から胸元にかけての真っ白い肌と燃えるような赤い髪はこの薄闇の中にあっても、射しこむ月光に輝いていた。
ただ、前方に斜め下に向けられた手の先からたれ下がっている鞭だけは、彼女の髪と同じ色をしていたものの、さらに暗い地面へと伸びるに従い闇の中にとけ込んで、その先はどこにあるともしれない・・・。
(・・・消えた)
クリムこと蠍のクリムゾンは内心うなった。
彼女の周囲に今、彼女以外の気配は全くなかった。
——現時点での力を見ようとしていた中、体力不足からあまりにも早く倒れてしまったイタチのアズマを少し休ませたあと、クリムは力試しの再開にあたってファントム・ルームの設定を変え、夜の深い森の中にした。
他の環境の中でのアズマの動きを見てみようと思ったからだが、あとひとつはアズマがファントム・ルームの場所の再現機能を気に入っているようだったので、気分を変えて気持ちを引き立ててやるつもりもあった。
夜の森というのはたいした深い意図もない思いつきだった。が、アズマが針を使うのに障害が多くて投げにくく、また、狙いもつけにくいという状況も少しは考えていた。その代わり、クリム自身、先ほどと違って今は手にしている、その武器である鞭も普通よりよほど使いにくい環境でもあるのだが——だがむろん、彼女ほどの手練れともなれば、こうした不利な状況であっても、それなりにやり用はある。しかし、経験の浅いアズマには、いきなり難易度が高すぎるかもしれないとは、そうしてみたあとで思ったが・・・。
ところが、驚いた。
(いくらわざわざ感情を抑えないでも、はじめからそれが現れないにしても、それにしても、これは・・・)
まわりが深い夜の森に変わると、アズマはなにも言われる前にみずから木立の間に分け入り、そして、姿が見えなくなってしばらくすると、完全に気配も消していたのである。
それは見事なものだった。
アズマの着ている白の水干と緋袴は、クリムの紫のドレスよりずっとこの闇のなかでも目に立つが、茂みの陰に隠れてそれが見えなくなると、ほどなく、クリムにはアズマの位置はわからなくなった。まさか、この少女にそうした能力があろうとは・・・。
(いえ——そういう能力とかいうより、もともと持ってる性質という感じ・・・)
その証拠に、しばらく様子をうかがっていると、時として葉ずれの音や落ち葉や小枝を踏む音がして、その時アズマがいる場所を知らせてきた。
もちろんアズマはなるべくそうした音を立てないよう注意しているはずだ。だが、それでもともするとそうしたミスを犯す——つまりは、人間と同じ形の体で物音を立てずに移動することには慣れていない。そういう技術はないのだ。物陰にじっとして隠れているときのほぼ完璧な気配の断ち方とくらべて、あまりにアンバランスと言うべきであり、また、それだけ不充分でもあった。これは、それが訓練を受けて身につけたものではないということを意味する。
たとえば、クリムのチームメイトである蜘蛛のノワールなどは、同じような環境で気配を立てることなく全速と変わらぬスピードで移動するということをやってのけるが、これは生得の才にくわえて、かつて彼女が暗殺者として活動していたことから、きびしい訓練を経、経験をつんだ結果、はじめて可能となったことである。
それに比べると、アズマのこの偏った現れ方には、訓練のあとは見られない。
(イタチって、もともと森の中に棲んでいる動物だったかしら?)
そんなことを思い返したのは、今のアズマの様子はむしろ、単にひどくこういう場所に馴染んでいるといった方がふさわしいものだったからである。
それは訓練などといった作為とは正反対の、本能的なあり方——野生の動物がただ自然にその棲息場所にとけ込んでいるような・・・。
(なんにしても、ただの『お人形さん』というだけではなかったということね・・・。あまく見れないわ)
もちろん、蠍のクリムゾンともあろう者に、はじめから油断などあるはずがない。
アズマが姿を消すとすぐ、少しまわりの開けた場所に出、そして、ひときわ大きな木を背にして、背後を守った。
アズマがずっと離れた物陰に身をひそめたまま針だけ飛ばして攻撃をかけてこられるなら、これでも防御は十分ではなく、むしろクリム自身もいずこかに身を隠して、こんな開けた場所にはいない方がいい。
しかしながら、先ほどの手合わせから、今のアズマではそれほど遠距離に針を飛ばすことはできず、さらにまた、木の枝や葉など多くの障害をすべてすり抜けて確実に目標に当てるなどという芸当もむずかしいだろうとわかっていた。そのため、周りを見通せるここに来たのだ。
今のこの状況では、アズマはクリムを攻撃するためには、その瞬間はどうしてもいったんクリムの見えるところに姿を現さなくてはならない。
いくら薄暗くとも、それなら迎撃できる。
だが、それはアズマも承知だろう。はたして、どうしてくるか・・・。
(・・・いる)
クリムはアズマがごく近くまで近づいてきているのを感じ取った。今までのところ、アズマはこれまでになくうまくやっていて、はっきりとした音・気配などは立てていないために、方向まではっきりとはわからないが、しかし、まちがいない。近くにいる。
と・・・
横合いの低い木の枝の繁みに、かさっとかわいた音がした。
はじかれたようにクリムがそちらへ向き直る。が、その時、それとは反対側の繁みからアズマが飛び出してきた! そして、宙を跳びながらそのまま、針を飛ばす!!
自分がいるのと逆側の繁みに針を投げて音をさせることで、クリムの注意をそちらに引きつけたのだ。音を立てるため、とりあえず茂みに当たればいいというのなら、アズマにも容易なことであった。また、放物線を描くように上方へ投げることで、次の針を用意する間も作れたのである。
クリムは身をのけぞらせた。瞬間、ほぼ仰向けになった彼女の顔のすぐ上で、いくつかの銀の光がきらめいて通り過ぎていく。
(うまい・・・!)
だが、アズマの戦法をそう評価するクリムは、あらかじめそれを半ば予測していたのである。
『うまい』というのは、その作戦そのものより、針を投げて気をそらせ、アズマ自身が飛び出してきたタイミングのことであった。
クリムが音のした方へ派手にふり向いたのもわざとだった。だが、アズマはまだ気づいていない。
第一撃は外されたものの、よけるために身体のバランスをくずした——と見えるクリムに対し、アズマはすばやく袂に手を納め、新しい針を持つと、
「・・・きゃ!」
地面に転倒した。
もちろん、なにもなく、転んだわけではない。再び針を放たんとしたその時、身体を支える軸足が不意に引っ張られたのだ。
あわてて上体を起こして、何かにいましめられた感触のあるその足首の方に目をやると、赤く長いものが巻きついている。
大きく身をそらしながら、クリムの腕だけは前方へふるわれ、それによって鞭は地を這うように低く飛んでアズマの足もとへと伸び、彼女の足首を絡めとったのであった。
体勢をもどしたクリムは続けて、右腕のひじから先だけをふるようにした。それだけで、締めつけるようにしっかりからみついていた鞭は手品のようにするっとほどけ、そして、そのまま波を打つようにアズマの手をしたたかに打ちすえ、6本の針をはねとばした。
ひゅぅんん・・・! ぴしぃぃっっ!!
「・・・あぁっ・・・!」
アズマは小さな悲鳴を上げ、口と目を開いたまま放心したように打たれた自分の両手を見つめた。
「ここまでね・・・」
クリムはアズマへ近づいていって、口を開いた。
「わたしの注意を別の方へ向けさせるやり方、なかなかよかったわ。ただ、相手が本当にこっちの手に乗ったかどうかはよく見きわめないと・・・たとえば、わたしだったら、本当に相手がそっちにいると思ったら、まず鞭を打ち込んでる——そうしていたあとでなら、たぶん今のと同じでも、あなたの攻撃はうまくいってた」
「は・・・はい・・・」
もう息を乱していたアズマはそれだけ言うのがすでにやっとだったようだが、 うなずいた。
「・・・」
だが、クリムは引っかかっていた。
(言ったことは、わかっているようなんだけど・・・)
ちらりとアズマの顔を見やる。
情報は共有しても、共通した感覚はない気色がする。こう、お互いに通じている手応えがない。
手を鞭で打ったときの、あのアズマの表情——無表情のさらに奥から現れた、あの放心したような顔・・・現実にあったこととは思えないでいるような・・・
鞭などというものがどういうものか、見ていればわかりそうなものが実際に打たれてはじめてわかって、びっくりしたような・・・
アズマの教官、白鳥のセリーナの言っていたことをあらためて思いだす。
——あの子には危険に対する意識が薄い気がする。攻撃を避けよう防ごうとする必死さがもうひとつ感じられない・・・本人にどこか現実味がないようなの・・・
(もういちど、しっかり確かめる必要があるわね・・・)