清水の会社は、じつはそれほど家から離れていない。
電車で駅ふたつ分で、その気になれば歩いてでも行ける距離である。
清水は自転車で通いたいくらいなのだが、
周囲の人間たちに「あまり社長の威儀が軽いと社員が不安になる」と言われ、不本意ながら車で通勤している。
そして意外なことながら、みさきは清水の会社に行ったことがなかった。
清水はみさきに余計な心配をかけまいと、
家庭には仕事を持ち込まないようにしているためで、今回のことは本当にめずらしいのだ。
電車でふたつ目の駅に着き、みさきは目的のビルを目ざす。
「着いた……けど………」
駅から二分も歩かない場所にある目的地に着いたみさきは、そのビルの威容に思わず口を開けて見上げてしまった。
新宿などにある超巨大ビルには当然及ばないが、
洗練されたデザインを持つ長方形を横にしたようなそのビルは、充分に大企業のそれと知れる。
「ご主人さま……………こんなすごい会社の社長さん……だったんだ……」
家にいるときの清水は、妹として、娘としてのみさきに様々なことをしてくれる。
そのことに感謝が絶えないみさきだが、とにかく家でのご主人さまはごく普通の兄であり父である。
だから「ご主人さまは社長さんでえらい」と漠然とはみさきも考えていたのだが、
ここまでのものとはさすがに想像していなかった。
とはいえ、これは清水の持ちビルというわけではなく、グループ内で作った最も新しいビルで、
その中にはいくつかグループ内の会社があり、清水が社長を勤める会社もそのひとつというだけにすぎない。
またグループだけがこのビルすべてを使っているわけではなく、
かなりのフロアをテナントとして他の企業などに貸しているので、
ビルの大きさほどに清水は大会社の社長というわけではないのだ。
もっとも、それでもたいしたものだが。
「……………」
しかしそういうことは知らされてなく、また知識もないみさきは、
なんだか急にご主人さまが遠い人に感じられ、寂しさと不安からしばしそこで立ち尽くしてしまった。
だが怪訝そうに自分の脇を通り過ぎるサラリーマンやOLの視線に我に返り、
あわてて自動ドアをくぐって玄関ロビーに入る。
おずおずといった感じで大きな玄関ロビーを通り、
自分より明らかに綺麗な(客観的に見ればみさきの方が上)受付嬢に気後れしながらも、みさきは彼女に用向きを伝えた。
「あの……シミズプライマリーの清水社長さんにお届け物があるんですが…」
「はい、お約束はございますか?」
「は、はい、大丈夫です」
「さようでございますか、それではお名前をうかがってもよろしいでしょうか」
「はい、清水みさきです」
「かしこまりました、少々お待ちください」
微笑を絶やさない受付嬢の完璧に近い応対に、みさきはまた気後れして落ち込んでしまったが、
受付嬢の方もみさきのかわいらしさに驚いており、
みさきが去ったあとに一緒にいたもう一人の受付嬢と
「いまの娘、すっごくかわいかったねー!」と小さな声ではしゃぎあうことになる。
それはそれとして、内線電話で連絡を取っていた受付嬢は受話器を置くと、
「すぐに迎えにいらっしゃるとのことです、しばらくこちらでお待ちいただけますか?」
と、笑顔でみさきに告げた。
「あ、はい、わかりました、ありがとうございます」
「ご主人さま来てくれるんだ」とホッとしたみさきは、もちろん快諾して受付の脇に立って清水を待った。
約二分後、清水が足早にやってきてくれたのを見て、みさきはさらにホッとした。
が、清水は一人ではなく、一緒に来たのがスーツのよく似合う美女だったことがその安堵感を少し曇らせる。
「ごめんな、みさき、ありがとう」
だが清水はそんなみさきの想いには気づかず、すまなそうな、うれしそうな笑顔でみさきに対した。
「い、いえ、こんなこと全然……あ、これです」
と、みさきはバッグに大切に入れておいた書類袋を清水に渡す。
「ああ、これだこれだ。ほんとにありがとうな、みさき」
ともう一度礼を言うと清水はその場で袋を開け、
何枚かある書類を調べ「ああこれだこれだ」と中の数枚を抜き取ると、横にいる女性に指し示しながら、
「ここのこの部分をさっき指示したとおりに修正して、それとこっちはこのままで大丈夫。あとこれとこれについては吉岡さんと山室さんに見せればわかると思うから」
と、きびきびと指示を与える。
その清水の姿はみさきがはじめて見るもので、家にいるときには決して見せない凛としたものが表情にはあり、
みさきは少し見とれてしまった。
が、隣りにいる女性が視界に入ると、つい気持ちに薄い雲が湧くのを感じてもしまう。
「………とりあえずこれを先に頼む。おれもすぐに行くから」
と女性に指示すると、彼女は一礼して小走りにエレベーターへ向かってゆく。
それを見送ってから、清水はいつもの表情に戻ってみさきに向かう。
「すまなかったな、本当に。なにか家でしてたんじゃないのか」
「いえ、そんなことないです。それに兄さんのご用でしたらいつでも」
「そうか、それならよかった。ほんとだったらこのまま食事かなにかに連れてって礼をするところなんだが……」
言いながら清水は申し訳なさそうな表情をし、みさきはあわてて明るい笑顔を作った。
「そんな、兄さんがお忙しいのわかってますから。これからすぐに帰ります」
「そうか、すまないな。それじゃ気をつけてな。ああそれから今夜はすこし遅くなるかもしれないからそのときは先に休んでなさい」
「はい、わかりました。それじゃあ」
と、最後の指示を守るかどうか自分でもわからないがそう答え、
ぺこりと頭を下げるとみさきは玄関の自動ドアへ向かって歩き始めた。
ドアを抜けるとき、もう一度後ろを振り向いてみたが、そこにはもう清水はいなかった。