それはアズマが走る軌跡で描いていた大きな円を鞭の直線が真っ二つに断ち割ったかのごとくであった・・・。
もちろん、アズマはクリムの攻撃がとどかないだけの距離を取っているつもりであったろう。しかしながら、その目測は誤っていた。鞭は数ある武器の中でも、もっともその間合いを見きわめにくいものであるため、戦闘経験のすくないアズマであってはこれはむりもない。
けれども、肩口を打たれ、いちど体を宙に浮かせて、そのまましりもちをついたアズマのそのありさまは、やはり鞭の勢いだけによるものとは見えなかった。
「・・・ひっっっ!!」
今度はまぎれもない鋭い苦悶の叫びをアズマは上げ、打たれた肩を押さえながら、みずからすすんで背後へ倒れるようであったのは、とっさに苦痛から逃れんとする本能的な懸命の動きであるようにセリーナには思えた。
「・・・はっ、はあっ・・・はあっ、はあっ・・・はあはあ・・・」
そして最初とは違い、すっかり息があがり、すぐにはまだ立ち上がれないでいるらしいアズマに向かって、クリムは容赦なく次の鞭をふりおろす。
——ばしっっ!!
しかし、当たらなかった。だが、それはわざと外したのだろう。鞭は床に倒れ、しどけなく開かれたアズマの脚の間をすさまじい音を立ててたたき、アズマをびくりとさせた。
「アズマっっ!!」
続いて飛んだ叱声も、劣らず厳しかった。
「痛いのがいやなら、逃げなさいっ!!」
「っあ・・・」
あわててアズマは立ち上がり、はじめ足をもつらせるようであったが、どうにか立て直し、かけ出す。
だがすでに反攻の意志もなく、とりあえず逃げるだけのようだ。
しかし、それを見てとったクリムは、今度はみずからも走ってあとを追いかけはじめた。
見ていると足の速さはそう変わらず、通常であればすぐには追いつけそうにない。
だが、走りながら、クリムは腕を振った。鞭が空飛ぶ赤い蛇のように、背後からアズマに襲いかかる。
——びしっ!!
「あぅっっ!!」
細い腰に蛇の牙が突き立った瞬間、アズマは背をおおきく反らせた不自然なかっこうでいちど跳びあがり、着地するときまたバランスをくずして倒れかけたが、今度はすんでのところで踏みとどまった。・・・しかし、止まってしまったことには変わりなかった。こちらも足を止めたクリムがその場から、さらに攻撃をくわえる。
——びしっ! ばしっっ!!
わき腹、そして、背中に・・・
「ふっ・・・は・・・あ、ああぁっ!!」
「そら、早く逃げるかよけるかしないと、もっと痛い目を見るわよ!」
アズマのあげる悲鳴にもかまわず、クリムは冷酷に言い放った。言われたアズマは力をふりしぼって、またかけ出す。それをまた、クリムも追いかける・・・。
(う〜〜ん、これって・・・)
セリーナは腕を組んだ。——冷や汗をかく気分で・・・
『赤の女王』という現在の通称が正式に認められた暗号名のように定着する以前から、その容姿と得意の得物が鞭であることから、クリムは周囲から陰で『女王様』呼ばわりされていた。が、本人はそれをいやがり、かなり気にしてもいたのをセリーナはよく知っていたし、実際、性行あるいは嗜好の面でべつにそんな要素はないのにと、いたく同情もしていたのである。
だが、今のこんなありさまのようなのを目にしては、それもしかたない気もしてくる・・・なんせ、逃げまどう少女を鞭を振りまわしながら追いかけ回しているのだ——いや、そもそもは、自分が頼んだことからはじまったわけなので、まちがっても口に出してそんなことは言えないのであるが・・・。
それでも、やはりクリムは手加減もしている。あれだけ打たれて、まだアズマが立って動いていられるのだ。それに、アズマの身体を見ても、その透きとおるような白い肌はところどころ赤くなっている程度で、鞭で打たれたあとはほとんど残っていない。
しかし・・・それにしては、打たれたときのアズマの反応が激しすぎた。やはり、変だった。痛がり方がふつうではない。
(あ——もしかして・・・)
セリーナの頭にひらめくものがあった。
そのとき、目の前の光景もちょうど新たな局面を迎えた。セリーナの予想したとおり、アズマのスタミナはもたなかった。走るスピードが目に見えてが落ち、身のこなしも雑になってしまっている。こうなると、もはやアズマにはクリムの鞭から逃れる望みは薄い。
後ろから再び凶悪な紅い蛇が噛みついたのは、こんどはすらりとしたアズマの右のふくらはぎだった。いきなり強制的に足の動きを止められ、しかし、走る勢いが残っていたアズマはがくんと体勢をくずしつつ、その右脚を軸に半回転して、クリムの方を向く。
「・・・ふっ、ふうっ・・・ふうっ・・・ふうっ・・・!」
(・・・ん?)
セリーナの注意が刺激された。振り向いたアズマの息は荒かった。だが、それは先刻とは異なり、ただ呼吸を乱しているだけではないと感じられたのだ。
ふだん何の色も映し出さないあのアズマの目に、今、何か燐光のようなものが灯っている・・・。
それは怒りやくやしみ憎しみといった、はっきり形を成した感情ではないかもしれない。だが、少なくとも——
(興奮してる・・・?)
気がつくと、アズマのその手にはいつの間にか針が握られていた。まだ投げる体勢にはない。だが、握ったこぶしにはぐっと力がこめられている。
『窮鼠』——
そうした言葉が思い浮かぶ。
(こんな・・・あの子の姿は、はじめて見るわ。ギリギリまで追いつめられて、あの子の中で、何か変わった・・・? いえ——それとも、今まで隠れていたものがはじめて表にあらわれたのかしら?)
——ひょう・・・!
鞭が唸りを上げた。
——ばんっ!!
自分へ向かって飛んでくる、そのよくは見えない先端に対し、アズマは退がらず、逆に一歩前へと踏みだし、同時になかば当てずっぼうに、指の間にはさんだ両手の針をたたきつける・・・!!
(むちゃを・・・!)
セリーナは目を剥いた。
いま、もしクリムの鞭が実戦用のものだったとしたら、一歩間違えば、一瞬のうちにアズマの手はずたずたになっていた。現在の装備は訓練用のものなのだろうからそれはないが、それにしても、失敗していたなら、持った針で自分自身の手をひどく傷つけていたことだろう。
だが、今はともかくもアズマは成功した。2、3本針をはね飛ばされながらも、鞭をはじき、はじめて体を打たれることを避けえたのだ。
——だっっ!!
さらにアズマは間をおかずクリムの方へと床を蹴り、またたくうちに間合いをつめていく。
セリーナのまなざしが強くなる。彼女はやや評価をあらためた。
(ちょっと乱暴すぎるのは、たしかだけど・・・でも、やるわ。あきらかに、今までとはちがう・・・)
——だが、アズマの反撃もそれまでだった。
自分に全速で迫ってくるアズマを、自身一歩も移動することなく見すえ、二呼吸の間クリムは待った。
そして、ただ腕だけを動かした——アズマにはじかれた鞭は蛇が進む方向を変えるように身をくねらせて再び宙をアズマへ向かい、こんどはしたたかにその両手を打って、針をすべてはたき落とす。
「ひ・・・ぃっ! ——はっ?」
続いて、次にはまさしく獲物を襲う蛇さながらアズマの身体に巻きついて、ぐるぐると両腕ごとアズマの胴体を縛りあげ・・・
「あ——あ、あ、あ・・・」
そしてその状態のまま、まったく無力になったアズマのやわらかな首を下方から螺旋の軌道を描いてのぼってきた鞭の先端が打った。
「ああぁーーーっっっ!!」
——死の拘束(デスロック)
相手の身体を拘束し、動きを完全に封じてから、よけられないとどめの一撃を加えるというクリムの決め技のひとつ——
鞭を自分の身体の延長のごとく自由自在に、いや、それどころか、まるで意思持つ別の生き物であるかのように動かせるクリムだからこそなし得る高等技術である。相手との間合いが近いことは、この技には相手の身体に巻きつける分の鞭の長さの余裕ができるということだった。だから、アズマに十分近づかせたのだ。
気をつけの姿勢のままアズマの全身に力が入り、身体全体を強張らせ、びくっ、びくっと2、3度痙攣まで起こすと——ぐったりとなって横に倒れた。