「何故だ」
お姉ちゃん、脚、速いよ…。息を切らしながら、彼女の後ろ姿にようやく、手が届く所までやってきた。そこで不意に、誰かの声が聞こえる。
エントランスへ通じる扉の手前に、僅か2、3段ばかりの小さな石段…。お姉ちゃんは最上段に居た。左半分を開け放ち中を覗かせる扉の前で、立ちすくんでいた。
「どうしたの? お姉…」
私も、立ちすくんだ。そして二人して閉じた側の扉の前に、本能的に……隠れる様にして半身を隠す。
それは、私たちが会いたがっていた人の声だった。でも、その声には明らかな憤りの感情が、込められている。
もう一度、私は中を覗き込んだ。
いつになく険しい表情をしたユーイチお兄ちゃん。彼の目線の向こうには……。
「もう一度、聞く。どうしてお前がこれを持ってるんだ」
その恐るべき相手は、ぼうぼうに伸びた顎髭を面倒くさそうに撫でた。
「そんな……事を……聞いてどうする?」
肉を常食する獣のような唸り声が、広大なエントランス空間での反響にも収まりきらず、私たちの肋骨辺りまで震わせた様に思えた。
「おや……じ……」
お姉ちゃんの顔は蒼白としていた。それも無理無かった。私だって同じだから……。本当の親子だったら、どれほど深刻だろう。あんな怖い話を、私たちはついさっき聞いたばかりなのだ。
「答えろ」
「フ……フ……大人に対して、口の聞き方が……なっていないな……。此処の、御曹子殿は」
確かに、お兄ちゃんの問い質し方は目上に対するそれでは無かった。それどころか、相手への敵意を隠そうともしない。怒りで我を失っているのとは違う。いつも通り、私たちに接している時の様に、彼は冷静だった。大人への畏怖、謙虚さも無く、目の前の男から受ける威圧感さえ物ともしない。恐ろしい野生の化身のような彫刻家と同じ様に、ユーイチお兄ちゃんもまた、認めたく無いけれど——異質な人間に見えてしまうのだ。
現世離れした二人……にらみ合いを続ける二人……。しばし、空間に取り戻された静寂……。私たちの心臓の鼓動が、二人に聞こえしまうのではないかと不安になった。お姉ちゃんの汗ばんだ手をすがる思いで握ると、彼女の手からも、怯えの感情が湿り気と震えとなって伝わってきた。今回が初対面なのだろうか。ユーイチお兄ちゃんと、この、本性の読めない彼女の父親は……。
「俺の事は……捨て置け。せっかく戻してやったんだ。大事な物なら、尚更文句を言われる筋合いなど、無いはずだが」
「答える気は無いか。では質問を変えてやる。何故今になって、ここに持ち込んだ?」
「フ……たった今……用無しになったのさ……」
真純の父親は、そう言うと両手をよれよれのズボンの両ポケットにつっこみ、天使像から離れて、エントランスから外に出て行った。