突然の大声に、私は飛び上がりかけた。が、健介お兄ちゃんが友人を制止する声だと分かり、胸を撫で下ろす。
明らかに彼は怒っていた。
「さっきから聞いてりゃあ、根も葉もない噂に惑わされやがって。大体、こんな小さい子が居る前で話すような事か? おい、武史」
「な、なんだよ……」
「帰るぞ」
ロックの手綱を引き、健介お兄ちゃんは道の向こうへ歩きはじめた。
「お、おい……」
「嬢ちゃん、気分悪りぃ話になっちまって悪かったな。俺たちはもう帰るから」
「……帰っちゃうの?」
「ああ、そろそろ学校に行かないと……っと、そうだ。嬢ちゃん、一つ聞いていいか?」
立ち止まってこちらを向いたお兄ちゃんの顔。何故か、どことなく表情が不安げだった。
「なあに?」
「嬢ちゃんとこってさ、動物……飼えるのかな」
「う〜ん……わかんない」
「そっか……」
ならいいんだ、と笑って、彼は友人とともに足早に去って行った。
「お姉ちゃん……」
終始黙りっぱなしの彼女の顔を見るのが、これほどまで恐かった事はなかった。黒制服の男の所為で、せっかく元気を取り戻した彼女に、再び影が差してしまった。彼女は押し黙って、ずっと俯いている。気まずい思い……。親しい友達が、まるで今は腫れ物だった。
「大丈夫……だよ……」
思いきって声をかけようとしたのを、まるで見切って遮ろうとするかの様に、彼女が顔を上げた。
「気にして……ないから……」
「お姉ちゃん……」
「そろそろ、お屋敷に戻ろう……」
お姉ちゃんに促され、振り向いた、その時だった。
私たちの目の前に、ティコが居た。
「うそぉ……」
お姉ちゃんが驚きの声を上げたのは、ティコが正門のど真ん中にちょこんと座り込んで、私たちの会話が終了するのを、ずっと待っていた様に見えたからだ。まるで、「用事はもう済みましたか?」とでも言うように。普通の猫ならば、もちろんそんな遠慮などするはずもない。一体、何時から彼はあそこに居たのだろう。
狐に包まれたような顔をしている私たちにそっぽを向いて、彼は羽崎家の洋館に向かってトコトコと歩きはじめた。そして、私たちの方を振り返る。
「ついてこいって、言ってるのかな」
「……行ってみよう。美月」
ティコの後を追いかけながら、私は昔読んだ絵本で、似たような場面があった事を思い出した。
まるで……そう、時計兎だ。
文字通り水先案内人を思わせるティコの後を追いかけて、私たちは門から敷地内に再び進入した。
先を行く彼の足の速さは想像以上に速く、途中視界に入る広大な敷地の風景に、注意を向ける暇も無い。長くて黒いティコのしっぽを目で追い、私とお姉ちゃんは一言も喋らずに後を付いて行く。
彼の行き先は、洋館のエントランスだった。何故か扉の半分が開けっ放し。私たちをそこへ誘う理由は何だろう。どっちにしろ、戻るつもりではあったのだけど……。思いを巡らせているうちに、私はティコがいきなり歩みを止めた事に気付くのが遅れた。彼のしっぽを踏みそうになるのだけは避けられたが、よろけて尻餅をついてしまった。
「何やってんのよ。ドジねぇ」
「ぅ〜。スカートが汚れちゃった……。ティコ、どうして止まっちゃったの?」
私の問いかけに、ティコは振り向き、私の目を見据える事で答えた。何か言っている……。なんとなく、彼の伝えたい意味が分かった気がした。理由など分からない。だが、私の心に直接響いてくる。
……彼は「行くな」と言っているのだ。
「行っちゃ駄目なの?」
「何言ってるのよ。案内しといてそんなのないでしょ」
「ジジョーが変わったんだって」
「へえ〜。あんた、この子の言う事分かるんだ」
「少しだけ。何となくだよ」
「そういうの、分かるんだったら初めから……」
愚痴っぽくなった彼女の口元が、いきなり凍り付いた。
「どうしたの?」
彼女は沈黙で答え、思い詰めた表情で、両耳に手を当てた。耳を塞いだ様に見えたが、違う。彼女は耳をそばだてている。私はまた、居心地が悪くなった。彼女の深刻な顔を見るのは、正直、もうトラウマになりかけていたからだ。彼女の押し殺した感情に、私自身の憂鬱まで思い出してしまう…。
「聞こえる…」
「何が、聞こえるの?」
彼女は、ゆっくりと、確信を持った声で答えた。
「親父の、声だ……」
彼女は私をおいて、エントランスへ駆け出していった。