どうやら私の人生は、片方の可能性を失いかけると、もう片方が慰めてくれるらしい。
『迷惑をかけた』羽崎家に、再び私は訪れる事になった。というのも、商談というお父さんの仕事ついでに、向こうのおじさんに謝る為に連れてこられたのだ。
ある程度予想の範囲内だったが、おじさんは別段、私が屋敷にいくら長居しても気にはしていなかった。我が家がそのまま収まってしまいそうな広大な応接間で、おじさんは身を硬直させている私に、笑いながら美味しいクッキーをふるまってくれたのだ。
理由は分からないけど、私の事を大層気に入ってくれている様だったから……今思えばあともう少しくらいは、あそこに居てあげても良かったかもしれない。
いつものようにユーイチお兄ちゃんの居場所を聞き出して、本来なら彼の元へ一直線に向かうはずだったが、私は応接間を出たドアの向こうで、おじさんの顔をそっと眺めてみた。
やや白髪まじりの、お父さんより20歳は年上だろうか……。丸顔で温和そうな表情からは、彼の息子とはえらく違った印象を受ける。外見的にも性格的にも、これだけ似ない親子というのは珍しいかもしれない。
不意に、昨日お兄ちゃんが口走った一つの言葉が浮かんできた。
『可哀想な人』……。本当におじさんの事なのだろうか。
あんなにも、穏やかな顔をしているのに……。
お兄ちゃんが居ると教えてくれた庭園に出てみたが、どこを探しても彼は居なかった。
ただでさえだだっ広い空間に、大人の背丈ほどの名前も知らない樹木で構成された生け垣が、私の視界を阻むように横一直線に連立している。それが等間隔に何列も用意されていて、何も考えずに生け垣の隙間道に入って行った私は、つまるところその中で迷ってしまったのだ。
「ふわぁ……どうしよう……出られないよぅ……」
この庭園を造った人は何を考えていたのだろう。隙間道は一本道ではなく途中で分岐し、交差し、挙げ句の果てには行き止まりにはまってしまった。
「出られないよぅ……」
建物内でならともかく、いくら小さな私でもまさか庭で迷うとは思わなかった。
私は不安になるとすぐに泣き出してしまう癖があったから、この時も危うく泣いてしまう所だった。そう、泣けば誰かが気付いてくれるかもしれない。
楽観的だか悲観的だか分からないアイデアを実行しようとしたその時、同じ境遇を憂う声が聞こえてきた。
「出られないよぉ〜」
誰だろう? 考えるまでも無かった。声からすると、ここからそれほど離れてはいない。
「ふえ〜ん、迷子になっちゃったよぉ〜。こういう時にユーイチおにーさまが助けてくれないかな〜なんちて」
「真純お姉ちゃん? いるの?」
「きゃ! 噂をすればなんとか! ユーイチお兄さまぁ〜ん☆」
どこをどうやったらそう聞き間違えるのだろう。お姉ちゃんの足は速い。疑問について思いを巡らす間も無く、彼女は私の前に現れた。
「って……なんだ、美月じゃん」
「えへへ、お姉ちゃんこんにちは」
「こんにちはじゃないわよ、もう! ここ一体なんなのよ〜! 巨大迷路かなんかじゃないの? 金取れるわね」
願っても無い彼女の登場に、私は大いに勇気づけられた。お姉ちゃんはいつものようにTシャツにジーンズのボトムといったラフな出で立ちで立っており、その表情は昨日の陰鬱さなどどこ吹く風だ。
「良かったぁ。お姉ちゃんに会えて。美月迷子になっちゃったから、ずっと恐くて……」
「ん〜。もう大丈夫よん。あたしが来たからには、こんなとこあっという間におさらばできるから」
「え……お姉ちゃんも迷ってたんじゃないの?」
お姉ちゃんはウインク一つすると、右手を生け垣の壁に軽く添えて、早歩きで歩きはじめた。
「こうやるとね、必ず出られるんだ。ホラ、あんたも早くついてきなさい」
緑の壁で構成された世界からようやく抜け出すと、羽崎家の高い塀が見えてきた。かなり長い距離を移動していたのか、数十メートル先には正門が構えている。
「ん〜いい天気ね。こういう日は気分も良くなるなぁ」
お姉ちゃんは両腕と顔を天に向けて、うんと背伸びをした。やはりいつも通りの彼女だ。昨日の印象を引きずっている様子は微塵も無い。
あの時の彼女は、一体何に脅えていたのだろうか。思いを巡らせている私の目の前に、背伸びを終えた彼女の顔が近付いてきた。
「ねえ、ちょっと確かめてもらいたい事があるんだけどさ」
「なあに?」
聞き返した直後、少しびっくりするような事が起きた。お姉ちゃんが自分の着ているTシャツを脱ぎはじめたのだ。
「お、お姉ちゃん?」
正確に言うと、脱いでいる訳ではなかった。彼女は私に背中を向けて、両手を後ろ肩に回すと、シャツの布を掴んでするすると持ち上げていく。
「何か、背中に変なとこ、ないかな」
目の前の光景を、私は恐る恐る、言われるままに眺めてみた。白地のシャツで隠されていたお姉ちゃんの背中は子供特有の健康的な艶があり、日差しを受けて薄い肌色の濃淡を描いている。年端も行かない女児が年上の女の子の背中をまじまじと見つめる奇妙な時間が過ぎて行ったが、お姉ちゃんの体が意外にやせていることの他には、別におかしな所など見つからなかった。
「別に、何もないよ」
「そう? あはは、じゃあいいの。良かった。美月ありがとね」
持ち上げていたシャツを降ろすと、彼女は乾いたような笑いを上げた。わずかだが彼女が緊張していたことにはじめて私は気付いたが、理由はもちろん、その事をいちいち口に出そうという考えすら些細な事のように思えた。次に起こる事に比べれば……。
犬の鳴き声が聞こえたのだ。それはどこか私が切望していた音で、そこから生ずる想いの向こうには、今朝の出来事の所為で失いかけたかに見えた、あの人の姿がちらついている。
驚くべき事に、それは気のせいでも幻でもなかったのだ。
「あー、いや……その……見ようと思ってみたわけじゃなくてだな。俗に言う不可抗力というか運命のイタズラとかいう奴ですか? とにかくそこのおっきな嬢ちゃん、怒らないでくれると俺は嬉しい」
鳴き声を上げた犬の居る方角へ目をやって、真純お姉ちゃんはきょとんとしている。顔も知らない男が自分に向かって大童して謝っている様を見れば、それも無理からぬ事だろう。
「でもね、そんな小さいうちからそういう遊びをするのは……お兄ちゃんはいけないと思います」
「ぶっ!」
真純お姉ちゃんが、吹いた。