「何度言ったら解る! 泣いていても言い訳にならんと言っているだろう、美月!」
恐れていたことが、ついに始まってしまった。
両手で目尻を拭いて泣きじゃくる私を見ても、お父さんが糾弾を止める事は無かった。
「昨日何時に帰ってきたと思っている。あんな夜遅くまで……羽崎さんに散々迷惑を掛けたんだろう」
いつもの食卓が、何度目だろう……、私がこの世に生まれて何回目かの、尋問部屋に変わっていた。
昨日、私がユーイチお兄ちゃんに連れられて帰ってきた時、玄関に出てきたのがお母さんで本当に良かったと思った。お父さんが彼まで叱り飛ばす所を想像して、私は今でさえ止まりそうな自分の心臓が、それこそ針で刺し貫かれる様な痛みに襲われてしまう。
「向こうのご子息の手まで煩わせて……最近のお前は父さんの注意を真面目に考えてないらしいな」
「あなた、そんなに怒らなくても……美月はまだ五つなんですよ」
「かまわん! 父さんの言う事を聞いているかいないかが問題なんだ。美月、黙っていないで何か喋ったらどうだ。顔を上げなさい!」
一度お父さんがこうなると、お母さんの宥めは全く効果がない。私は椅子の上で小さく震えて俯きながら、テーブルの端を涙で濡らすしか他に無いのだ。お父さんの顔は……きっととても恐ろしいだろうから、臆病な私は顔を上げる事がどうしてもできなかった。
「グ…ス……ごめん……な…さい……」
「口だけで謝っても、行動が伴わなければダメだ。もう一度、お父さんの顔を見て言うんだ」
恐る恐る私は顔を上げた。予想どおりの、とても険しいお父さんの表情。強く威厳のある彼の眼差しは、容赦なく私の心に恐怖の念を刻み付ける。
「……ごめんなさい」
「もっと、大きく!」
「ごめんなさい!」
泣き叫ぶように肺から声を絞り出した。涙でぼやけた視界の隅にお母さんが見える。今の私には、少し距離を置いて心配そうに様子を窺う、お母さんの哀れみの視線だけが唯一の支えだった。
それでも、お母さんの助けは期待できない。一度でも逆らってしまえば、お父さんはたとえ相手がお母さんであろうと容赦がない事を、私は知っているから。
これだけ謝ったのに……、きっと、恐さから出た謝罪に誠意を感じなかったのだろう。お父さんはとうとう、私の最後の砦まで奪おうとしていた。
「父さんはこれまでお前の自由を大分許していたが、これからは少し制限する必要があるな」
一番恐れていた結果に、それまで荒れ狂っていた激情さえ一瞬で凍り付いてしまった。際限なく溢れ出ていた涙が、ぴたりと止まってしまうほどに。
そして、お父さんはついにその言葉を吐き出した。
「早朝、家から出る事を禁止する。もちろん、あの怪しい若造に会う事もだ」
「……ぇ? 嫌…だ……お父…さん……いやぁ……」
「あなた! それはいくらなんでも厳し過ぎます」
「お前は黙っていろ! 最近の若い連中にそそのかされるから、美月がこうなってしまうんだ」
否定しなければと思った。彼を守るために。この間ついに言えなかった言葉を、今こそ言わなければ。
「……違…ぅ」
もう少し……。もう少しの勇気で……。
「違う……」
「なんだ。美月」
「ケンスケ……お兄ちゃんは……悪い人じゃ……ないです」
お父さんの顔色が明らかに変わった事に、私は気付いた。一度言った言葉は元には決して戻らないけれど、それでもお父さんの逆鱗に触れた事を私は瞬時に察して、自分のしてしまった事を激しく後悔した。
お父さんの逆鱗に触れる事が二つある。他人に迷惑をかける事と、お父さんの言う事を聞かない事。特にお父さんに口答えする事は、何よりも絶対に許されなかった。しかも従う時は、『にこにこと』喜んで従わねばならない。お父さんは完璧主義者なのだ。そのタブーの一つを、私はついに破ってしまった。
「父さんに口答えするまで我がままになったのか! 誰のおかげで今日ここに居られると思ってる!」
「あなた、もう勘弁してあげてください!」
「うるさい! いいか美月! そんな若造の言う事は信用するな。お前はな、父さんの言う事だけを聞いていればいいんだ!」
お父さんの大きな怒鳴り声で、まるで部屋中が振動して震えている様だった。私は恐怖と絶望感で何も分からなくなっていた。すでに体中の水分を使い果たしてしまったのか、涙はもう枯れて出てこない。
恐怖と混乱が入り交じる頭の中で、ぼんやりと考えた。
どうして、私はお父さんの娘なんだろう……。