ここは……。
ティコは、天界に居た。急な場面の切り替わりに、ティコは動揺した。
まさか、寝てしまったのか……? ここは、夢の中なんだろうか。
辺りを見渡す。ここは、天界と地上とを結ぶテレポート施設だった。遠くから、懐かしい友人たちが歩き去っていく姿が見える。
そうだ。今日は、初めてご主人様の居る地上に降臨する日だった。さっき、友人達と別れの挨拶を終えたばかりだったのだ。
相棒のロックは、一足先にテレポートして地上に降り立っているようだった。私も、早く後を追わなければ……。
そのとき、ティコの背後から一人の男が近づいてきた。
「主人の元へ降臨できることになったそうだな。おめでとう」
振り向くと、まばゆい装飾に彩られた法衣を身にまとい、職位の高さを感じさせる美しい冠を頭につけた男が、ティコの門出を祝うかのように拍手していた。
「ゼフィルス様……」
この男はゼフィルスという名の、天界における高位の神官だった。ティコが天界で転生してから今に至るまで、何かと便宜を図ってもらったり、世話になることが多かった男である。本来であれば多忙で、一人一人の守護天使の相手などしている暇はないはずであるが、何故かティコ一人に対してだけは、常に目を掛けてくれ、ティコが守護天使として修行をする中で色々と面倒を見てくれたのである。ティコにとっては、恩人とも呼べる人であった。
この男が具体的にどのような役目を天界で果たしているかについては、機密であるらしく、ティコの知れるところではない。多忙な中、なぜ自分にだけ目を掛けてくれるのか。どこか、普通の守護天使とは違うつかみ所のない雰囲気を持つこの人物を、ティコは不思議に思いながらも、上官として信頼していた。
「地上に降りることになった君に、ちょっとした頼みがある」
そう言うと、ゼフィルスは懐から小さな筒を取り出した。
「地上に降臨した後、これを使って、ある二人の女性の記憶を封印して欲しいのだ」
「記憶を封印……? なぜです?」
「その二人は、過去に辛い経験をし、それがトラウマになっている。この記憶封印具を使えば、その辛い記憶を消し、精神を救うことができる」
ティコは訝しげな表情で、ゼフィルスに問うた。
「誰なんです。その二人とは……」
「朝村美月、そして藤原真純だ」
「!! ご主人様と……あの人が……!?」
「すでに、メガミ様からの許可は取ってある。心配することはない。これは使っても無害だ。副作用はない」
「し、しかし……」
「彼女たちを助けたくないのかね?」
そう言われると弱い。ゼフィルスの冠にある印を見た。天界の管理を司る者たちに与えられる紋章だ。自分よりはるかに格上の、大天使の中でもさらに特別な立場にいる者だけが得られる証。口では「頼み」というが、これはそんな上官からの、実質的な命令と言える物だった。
断る自由は自分にはない……。ティコは、首を縦に振った。
思えば……これが全てのはじまりだったのかもしれない。
あのとき、首を縦に振らなかったら……。状況は変わっていたのだろうか。
ティコは目を覚ました。いつのまにか、眠ってしまったのか! 慌てて時計を見る。午前3時40分だった。
呪詛悪魔ジードとの死闘のダメージと、疲れがそうさせてしまったのだろう。隣を見ると、美月がすうすうと静かな寝息をたてていた。
ティコは自分の肋骨を、傷を確かめるようにそっと撫でた。ジードの攻撃によって折れてしまったあばら骨が、いつの間にか接合されて治っていた。
フェルジーンの力のおかげだろう。まったく、ラエルのおかげでとんでもない力を手に入れてしまった。
この力は、元々ラエルのものなのだ。ティコがシャム猫だった頃、ラエルが日夜ティコにフェルジーンの力をチャージしてくれていた。それで、ティコもわずかだが、この力を出せるようになった。わずかとはいっても、ティコにとってはそのエネルギーは途方もなく膨大なもので、制御がことのほか難しかった。先ほどの戦いでも暴走を恐れ、ほんの少しの出力しか出せなかったが。
守護天使ラエル……今はどこに居るのだろう。彼が助けてくれるなら、どんな脅威だって恐れることはないのだが……。
そして、神官ゼフィルス……今まで深く考えることはなかったが、彼は本当は一体何者なのだろうか。以前から気になっていたが、普通の守護天使とはどうも違う雰囲気をティコは感じ取っていたのだ。
美月と真純の記憶を封印する……今だからわかるが、彼女たちの精神を救うというのはおそらく本当の理由ではない。彼は何を隠したかったのだろうか。今思えば、もっと調べておくべきだった……。
様々な思いがティコの脳裏を駆けめぐる。
ロック、かすみちゃん……二人には悪いことをしてしまった。ロック……お前は一体、今どこに居るんだ?
答えのでない問いかけが、ティコの意識を次々と埋めていってしまうのだった。