P.E.T.S.[AS]

第7話「すれ違う心」

 ティコと美月は電車に乗り、自宅から数十キロ離れたとある駅で降りた。
 今まで一度も訪れたことのない街。ネオンに彩られた夜の街を、二人はずっと黙ったまま歩いた。
 駅のそばの歓楽街から少し離れた場所に、一件の寂れたビジネスホテルを見つけ、二人はそこに泊まることにした。
 ティコはロビーでツインの部屋を取り、美月と共にエレベーターに乗った。
 ホテルの従業員は、二人を恋人同士だと思ったらしい。たしかに、今この状況を見たら、誰だってそう思うだろう。
 人間の恋人達も、こんな感じでこうした施設を利用するのだろうか……。妙な考えが浮かんだのを、ティコは頭を振って慌ててかき消した。
 部屋に入り、二人は交代でシャワーを浴びた。慌てていたので着替えを持ってきたわけでもなく、二人はそれまで着ていた服を再び着て、ベッドに腰掛け、ようやく息をついた。
 しばらくの静寂が、二人を包み込む。たまに、窓の方から遠くの歓楽街を通る車の音がノイズとなって聞こえてくる。自宅から、ずいぶんと離れたところに来てしまった。見知らぬ土地での不安や寂しさが、二人の心を落ち着かなくさせる。だが、ここまで離れれば……尾行されでもしていない限り、多少は時間が稼げるはずだ。
 二人はそれぞれのベッドに腰掛け、向き合うように座っていた。美月が重い口を開く。

「それで……ティコ。なんだっけ、その、呪詛悪魔っていう人たちが……私たちの命を狙っているの?」
「ええ……人間に恨みを持ち、強力な力を持つ者達です。なぜ彼らが私たちをターゲットにしたのか、理由は分かりませんが……」
「じゃあ……ロックも……危険じゃないのかな」

 先ほどから携帯を充電し、再びよいさに電話を掛けてみたのだが、電話に出た女将さんの話では、ロックはよいさに戻っておらず、居場所が分からないという。

「ええ、ですがロックの居場所がわからないことには……連絡の取りようも……」

 そこまで声が出たところで、ティコはあることに気がついた。

「そうだ! なんで今まで思いつかなかったんだ……」
「どうしたの? ティコ」

 ティコはその問いかけにはすぐには答えず、携帯電話のボタンを熱心にたたき始めた。五分ほどが経過して、ようやくティコは携帯の画面から顔を上げた。

「私のかつての仲間に、SOSを発信しました」
「それって、前にティコが言っていた……しつじの世界っていうところで一緒に修行していた人たちのこと?」
「はい、それと……ドミニオン・フォースという天界の警察組織にも通報しました。良い返事が来るとよいのですが……」
「守ってくれるのかな……私たちを……」
「ええ、それまでの辛抱です」

 美月は、少し安堵の表情を見せた。その様子を見て、ティコも安心したのか、優しい口調で主人に話しかけた。

「さぁ、もうこんな時間です。ご主人様はもうお休みになってください」
「ありがとう……でも、なんだか色んなことが気になって眠れない。少しお話ししようよ……」

 二人は、それぞれベッドに横になりながら、話をすることになった。部屋の明かりを消して、二つのベッドの間にある台の、小さなライトの淡い光だけを残した。天井を見上げる。ライトの不安定な淡い光を受けて、天井の模様がゆらゆらと濃淡を変えて変化していく。まるで、二人で星空を見上げているかのようだった。

「ティコ……以前、私寝ちゃうと、幼い頃の記憶が正確によみがえってくるって話、したよね」
「はい……」
「あれって、なんなんだろう。さっき私がかかっていた、暗示みたいなのが原因なのかな」

 ティコはしばらく、答えなかった。数分の空白が続き、美月は不安になったのか、ベッドに横になったまま、首だけティコの方を向いた。

「ティコ……寝ちゃったの?」
「……ご主人様に、謝らなければならないことがあります」

 ティコは、思い切って打ち明けることにした。あの事実を……。

「私は……私とロックがあなたの元へ転生してから間もなく、私は、ご主人様と真純先生の過去の記憶を封印したのです」
「ティコ……何を言っているの?」
「ご主人様。私たちが転生してくる以前のあなたは……幸せでしたか?」
「え……」

 美月は少し驚いた顔をして、顔を天井に向け、しばらく考え込んでいたが……程なくして口を開いた。

「幸せじゃ……なかったかもしれない。凄い、悩んでた」
「私は、ある人物から頼まれ、あなたの記憶を封印しました。そうすることで、あなたの精神が過去の辛い出来事から解放され、救われると言われたのです。私は、首を縦に振った……」
「でも、私は今、だんだん思い出せてるよ」
「そこです。封印をしたら、通常では自力で記憶を取り戻すことは不可能なはずなのです。だから、おそらくは……」

 ティコはしばらく呼吸をおいて、自分の推論を説明し始めた。

「ご主人様と、真純先生が過去の記憶を取り戻すことを目的として行動している者達がいると思うのです」
「私と先生の記憶を……?」
「おそらく、夢という、深層心理が表に現れてくる状態が、もっとも記憶再生に向いているということなのでしょう。ご主人様たちの夢に働きかけている者が居るのです。でも、それが誰なのか分からない……」
「私、ペンダントのせいだと思ってた……。このペンダントを買ってから、記憶が再生する夢が始まったから……」

 美月は、首から提げているペンダントを外し、ティコに見せた。ペンダントは薄暗いライトの光を受けて、鈍く輝いていた。じっと見ていると、まるで意識が吸い込まれそうな奇妙な錯覚を覚える。ティコはペンダントを受け取ると、ルビー石の中にあしらわれた模様をまじまじと見つめた。

「ご主人様……このペンダント、過去に見覚えがありますよね?」
「え……ああ、そういえば……あったよ。ユーイチお兄ちゃんが持っていたやつだ。骨董屋で見つけたときは気づかなかったけど……」
「大体分かりました。このペンダントは、ご主人様と真純先生の記憶を再生する触媒の働きを持っているんです」
「触媒……?」
「ええ、それを使って、ご主人様と真純先生の記憶を再生しようとしている者達と、それを良く思わない……つまり、ご主人様と真純先生の記憶を封印しようと画策した者達。二つの勢力が争っている……」
「ええと、よくわからないけど……私と先生の記憶に、どんな価値があるっていうの?」
「そこまではわかりません。ただ、今回の件は、相当に奥が深そうです。単に呪詛悪魔が私たちの命を狙っているという以上に……」

 ティコはペンダントを美月に返すと、念を押した。

「ご主人様。そのペンダントはとても大切な物です。決して誰にも渡してはいけません。見つからないように、隠して持っていてください」
「隠すのね……うん、わかった」

 美月はペンダントを首にかけると、ルビー石の部分を自分の胸元の服の下に隠し入れた。
 ティコはそれを確認すると、ベッドから上半身を起こして、真顔で美月の顔を見据えた。

「ご主人様には、あともう一つ、話しておかなくてはならないことがあります」
「う、うん……」
「ご主人様、さっき、私のことを「ユーイチお兄ちゃん」と呼びましたよね」

 美月は、罪悪感からか目線をティコから離し、少しうつむき加減で答えた。

「うん……ごめんね。きっと、頭がぼうっとしていたから、その……過去の記憶と重なって、間違えてそう呼んでしまったと思うの」

『好き……ユーイチお兄ちゃん』。さっき、主人の口からこぼれ出た声が、ティコの脳裏を反芻する。

「暗示に掛かっていたとはいえ……あそこまでご主人様は、彼……祐一に相当の好意を持っていた……だから、残酷かも知れないが……真実を伝えておかなければならないと思うのです……ご主人様」
「ティコ……?」

 美月は、ティコの並々ならぬ覚悟の表情を見て、動揺していた。これから言うことは、きっと美月を酷く混乱させるだろう。伝えたところで、なんの意味があるのか、二人にとって、何の得にもならないのではないか……しかし、事実は事実だ。いつまでもご主人様に虚構を見させるわけにはいかない。

「ご主人様が慕っていた、羽崎祐一……あなたが過去に会っていた彼は、本物の羽崎祐一ではありません」
「え……?」
「本物の羽崎祐一は……19年前に交通事故で死亡しています」

 美月は、予想通りの、困惑した表情をしていた。美月を傷つけたくない……。しかし、ここまで言ったのだ。言い切らなければ……。ティコは意を決した。

「あなたが会っていた、彼の本当の名は『ラエル』。私と同じ……守護天使です」

 しばらく、冷たいほどの静寂が部屋を満たした。美月は、まるで何を言われたか理解できないとでもいうように、ほとんど放心状態に見えた。

「しゅご……てんし……? あの人が?」

 美月はかろうじて、声を絞り出した。未だ信じられない、といった顔をしている。

「19年前に、羽崎祐一が交通事故で死んでから、それが原因で彼の父親は精神を病んでしまいました。かつて、その父親に飼われていたシャム猫がラエルだったのです。彼は死後、天界で修行に明け暮れていましたが、不幸にも主人にその存在を思い出してもらう機会が訪れなかった……しかし、彼の息子、羽崎祐一が死んだことで主人が精神を病んだと知って、彼は特例で人間界に降臨することになったのです。羽崎祐一の姿となって、彼の息子になるために……」

 美月は、じっとティコの話に耳を傾けている。

「彼は……ラエルは、病院に安置されていた羽崎祐一の体を乗っ取りました。それで、周りの人間からは、交通事故で死んだ羽崎祐一が……数日後、奇跡的に息を吹き返したように見えたのです。当然、主人……祐一の父親は喜び、精神の病から解放され、救済されました。ラエルは……自らを、かつて飼われていたシャム猫であり、恩返しに来た守護天使であると打ち明けることは決してありませんでした。彼は守護天使としての自分を完全に殺し、完全に羽崎祐一になりきったのです」
「そんな……」
「そして、羽崎祐一となったラエルは、もう一匹のシャム猫……つまり、私を飼い始めました。彼は私にティコという名を名付け、特別な存在に育て上げることにしました。彼は守護天使としての力を私に日夜注ぎ込み、特殊な能力が芽生えるようにしたのです。たとえば……」

 ティコは、動揺している美月の様子を心配しながら、言葉を続けた。

「私は、シャム猫だったときから人語を理解することができました。当時、幼かったご主人様達と細かい意思疎通ができたのは、それが理由だったのです」

 美月は、驚いたように声を上げた。

「ああ……そうだったんだ……覚えてる。私……あのとき、ティコが私たちに色々伝えようとしてくれたこと……」

 ティコは続ける。

「彼は、私を初めから優れた守護天使にすることを念頭に置いて、私を育ててきました。そして、彼が……幼いあなた……ご主人様と出会って、彼は決めたのです。私を、朝村美月の守護天使にするということを……」

 美月は再び驚いた表情をした。

「そんな……私の……ために……?」

 ティコは苦笑しながら、美月から顔を離し、天井を向いてうんとのびをした。

「まさか、守護天使が守護天使に仕えてもしょうがないですからね。ラエルは、元々は私のことも、祐一の父親の世話のために転生させるつもりだったようですが、ご主人様を見て考えを変えたようです。ラエルも、きっとご主人様となにか運命的な縁を感じたんだと思います。なぜだかは分かりませんが……」

 ティコは、再び主人の方を向いて、動揺している美月の目を見据えた。

「私が、彼ら……祐一とラエルと同じ容姿をしているのは、そういうことです。私がご主人様に受け入れられやすいようにと、あなたがかつて親しかったラエルと、同じ姿になることを私は決めたのです。もっとも、それでご主人様は私とラエルを混同されて、苦しまれてしまったようですが……」

 ティコは、弱々しく笑った。

「さっきはちょっと……正直落ち込みましたよ。私は結局彼……ラエルの影でしかないのかと……そう思いました」
「そんな……ティコ……」
「ラエル……彼は普通とは違う、特別に強大な力を持つ守護天使です。守護天使に求められる能力全てがとてつもなく高い……。全てにおいて劣る私は、どうあがいても彼には勝てない……」
「ティコ……」
「ご主人様にとっても、私より、ラエルの方に強い想いがあるのかと思うと……。はは……正直、自信をなくしてしまいますね」
「違うよ!」

 それまで、押し黙っていた美月が、声を大にした。

「確かに……さっきはあなたとあの人を間違えてしまって……言える立場じゃないかもしれないけど……私……ティコの方が大事よ。だって……かけがえのない、私の家族だもの!」
「家族……」

 ティコは、その言葉を聞いて、暖かい安堵の気持ちと、不思議な寂しさを同時に感じた。なんだ……この感覚は……。

「ありがとうございます。ご主人様……」
「もちろん。ロックも家族よ」
「ええ……ロック……戻ってきてくれるといいんですが……」
「そうだね……」

 しばらくの沈黙のあと、ティコはライトに手を伸ばした。

「さぁ、もうそろそろ寝ましょう。明日は早いですよ」
「うん、おやすみ……ティコ」
「おやすみなさい。ご主人様」

 ライトの明かりを消すと、部屋は完全な暗闇と化した。話し込んでいるうちにだいぶ時間が経ったのか、さきほどまで窓から聞こえていた繁華街のノイズは、完全に消えて無くなっていた。完全な闇と無音……。美月はきっと、ぐっすりと休めるだろう。一方、ティコは寝るつもりはなかった。万が一呪詛悪魔に襲われた時のことを考えれば、寝るわけにいかない……。
 ベッドに仰向けに寝て、天井を見つめる……。さっき、「家族」と言われて感じたわずかな寂しさはなんだったのだろう。ティコは考えた。
『好き……ユーイチお兄ちゃん』
 美月の声が脳裏を反芻する。私は、ラエルに嫉妬しているのか? 家族では物足りないとでもいうのか? 私はご主人様に……美月に、何を求めようというんだ?
 否定しようのない現実を、彼は受け入れ始めていた。
 美月を……主人ではなく、一人の女性として意識し始めているということを……。


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