ティコは真純邸の前で、美月を見つけた。
「ご主人様!」
「ティコ……」
真純邸の玄関を少し出たところで、ふらついている美月を、ティコは抱きかかえた。
「良かった……ご無事でしたか……本当に良かった……!」
ティコは、美月を抱きかかえたまま、顔を伏せ、しばらくそのままでいた。主人の暖かいぬくもりが伝わってくる。主人が無事だったことを実感し、ようやくティコは顔を上げた。
「ご主人様に、話さなければならないことがあります。でもまずは……」
ティコは携帯電話を取り出すと、ロックが居る蕎麦屋「よいさ」に電話をかけた。複数の強力な呪詛悪魔が現れ、主人と私たちの命を狙っている。一大事だ。主人の安全を守るためには、相棒であるロックの力が不可欠だ。
「あ、もしもし、ティコです。かすみちゃん? ああ、よかった。あの、ロックと代わってくれるかな?」
「駄目……ティコ……」
困惑すべきことがおきた。美月が、ティコから携帯を取り上げ、電話を切ってしまったのだ。
「電話しちゃ……ダメ」
「ご主人様? しかし、ロックに連絡を取らないと……」
「二人きりで……居たい……」
「ご主人様……?」
ティコは主人の言葉に動揺した。その言葉の意味は……ティコは、今まで感じたことのない胸の高鳴りを感じた。しかし、そんな場合ではない。一刻を争うのだ。美月には悪いが、もう一度、電話をかけようとした。しかし……。
「バッテリー切れだと? くそっ……」
携帯のバッテリーが底をつき、使えなくなってしまっていた。
どうすればいい……考えろ、ティコ……。
美月が、口を開けた。
「アパートに……帰りたい……」
アパート……呪詛悪魔たちに場所を知られている恐れがある。アパートに戻るのは危険だ……。しかし、思い直した。
もしかしたら、さっきの電話を怪訝に思って、ロックがアパートに戻ってくるかも知れない。そうすれば、合流できる。
「わかりました。戻りましょう。アパートに」
アパートにたどり着いた。
部屋のドアを開け、ティコは美月を支えながら中に入ろうとした。しかし、美月がそれを制した。
「ここでいいよ。ティコ……」
「中に入らないんですか? ごしゅじん……!」
美月が、驚くべき行動をとった。美月はティコの背中に手を回し、驚いた顔をしたティコに自身の顔を近づけ……。
ティコの唇を、自身の唇で塞いだのだった。
(ごしゅ……じんさま……)
口づけは数分に及んだ。身を離そうとするティコの体を押さえつけ、美月は甘えるように積極的に体を押しつけてくる。唇と唇がわずかにくっつくだけの、初恋の時のような、ささやかだが、暖かいキス……。
しばらくして、ようやく美月は体を離した。しかし、なおも美月は恍惚とした表情をティコに向けている。
「ご主人様……あなたは……一体……」
困惑したティコに、美月は衝撃的な言葉を口にした。
「好き……ユーイチお兄ちゃん……」
恐るべき言葉に、ティコは狼狽した。
「なん……だって……?」
「好きなの……離れたくないの……もう、遠くに行っちゃいや……ユーイチお兄ちゃん……」
ティコは美月の肩をわしづかんだ。
「違う! 私は祐一じゃない!」
美月の恍惚とした頬を、ティコはショックを与えるように、手のひらで何度も叩いた。
「しっかりしてください! ご主人様! あなたはどうにかなってしまったんだ。正気に戻ってください。私は祐一なんかじゃない!」
「ユーイチお兄ちゃん……何を言っているの?」
なおも、美月はティコをユーイチと呼ぶ。
「いい加減にしてくれ! 私は彼とは違う。私はシャム猫のティコ……ティコなんだ。彼と一緒にしないでくれ!」
「……ティ……コ……? 誰なの、それは……思い出せない……」
「美月……私は……」
いつの間にか、主人の名を呼んでいた。もう、ティコにとっても、目の前の女性が主人には見えなくなっていた。自分にとって、もはや得体の知れない人になってしまった。
「く……るしいよ……お兄ちゃん……」
はっとして、ティコは美月の目を見た。おかしい……普段の美月の目ではない。瞳孔は何かを捉えんとするほど大きく開き、黒目だった部分は血のような赤い色味が差している。まさか……。
「ご主人様……まさか、マインドコントロールか!?」
それなら、フェルジーンの力で、治せるかもしれない。ティコは意識を集中し、美月のこめかみに両手を添え、力を込めた。
「フェルジーンの力よ……この者の邪気を払いたまえ」
美月の顔に薄いエネルギーのベールがかかり、しばらくすると美月の目が普通の黒目に戻っていく。
しばらくすると……美月の表情は正気を取り戻していた。
「あれ……ティコ……? 私……今まで一体……」
美月は、今まで自分がした行動を思い出し、真っ赤になってしまった。
「う……そ……。私、なんてこと……」
美月は悲壮な顔になり、許しを請うような潤んだ目で、ティコを見た。ティコはため息をつき、優しく美月をなだめた。
「ご主人様。あなたは悪い夢を見ていたんです。あなたのせいじゃありませんよ。どうか、ご自分を責めないでください」
「でも……でも……私……」
そのとき、近くから物音が聞こえた。振り向くと、二人の人物が走り去っていく姿があった。
「かすみちゃん……ロック……!」
ティコは美月を置き、駆けだしていった。