日は完全に沈み、辺りはとっぷりと闇に包まれている。星は分厚い雲に覆われて見えず、不気味な月の光がわずかに眼下を薄く照らしていた。
朝村美月は、うつろな目でゆっくりと歩いていたが、藤原真純邸の前でその足を止めた。
はっと我に返り、辺りを見渡す。
「あ……れ? なんで私こんなところにいるんだろう……」
鈍い意識を揺り動かして、美月は自分がなぜここに来たのか、理由を思い出そうとした。脳裏にめまぐるしく様々なイメージが現れては消え、最後にあるキーワードが浮かんだ。
『真純に気をつけろ』
「そうだ……携帯電話のメールに、こんなことが書いてあって……心配になって」
そう、それでやってきたのだった。
「先生、居るかな……」
呼び鈴を押してみる。しかし何度押しても反応はなかった。家の電気は全て消えており、真純が居る気配はない。
「工房の方かな……」
真純の自宅の隣に隣接している工房に移動し、工房の呼び鈴も押してみた。……こちらも反応はない。
「寝ちゃったのかな? まだ寝るには早い時間だと思うけど……」
美月は工房の鍵を使ってドアを開き、工房の中に入っていった。
工房は照明もついておらず、薄暗い。天窓からわずかな月明かりのみが差して、それが工房に並べられた、ここの主人が作ったであろう、天使の作品達を薄く照らし出していた。
美月は部屋の明かりをつけて、注意深く中へと進入した。
「先生〜、いないんですか?」
むなしく声だけが響く。この工房にも、真純が居る気配はない。美月は不安になってきた。
「どうしちゃったんだろう……あ、そうだ。先生に電話すれば……」
と、言ったところで、美月はいつもしまっていたポケットにそれが無いことに気づいた。
「携帯電話……家において来ちゃったんだ! ……あーもう、ドジしたなぁ……」
さらに、自分がここに来る前のことを思い出し、美月は狼狽した。
「あ! そういえば……! ティコに無断で外に出ちゃったんだ!」
連絡をしようにも、携帯電話が無いことにはどうにもならない。
「どうしよう……なんて勝手なことしちゃったんだろう、私……ああ、もうバカ……」
普通ではありえない事をした自分が、信じられなかった。そういえば、ここへ来るまでの記憶も曖昧だ。よく覚えていない。一体、自分はどうしてしまったのか……。
「早く、アパートに帰ろう……きっとティコ、私のこと探してるよ……」
きびすを返し、工房を出ようとした、その時だった。
「あれ、なんだろう、これ……」
部屋の壁に設置してあるいつもの棚が、隣に移動しており、かつて棚があった位置に大きな空洞が空いている。隠し部屋のようだった。
「工房にこんな部屋があったなんて……」
隠し部屋に入ってみる、すると、急に頭の中に、真純の声が響いてきた。
『ユーイチお兄さまのお父さんって、どんな人ですかぁ?』
「ユーイチお兄ちゃん……」
懐かしい記憶……そうだ。私、幼い頃……真純先生と一緒に遊んでいたんだ。今朝、真純は「親父の夢を見た」とも言っていた。
もしかして……。
「先生も、見たのかもしれない。私と同じ夢を……」
美月は、思いをはせた。ここ最近、過去に実際にあった出来事の記憶が、そのまま夢となって再現されていくこと。夢のくせに脚色などは一切無く、怖いくらいに正確に過去の記憶が再生されていたこと……。私だけでなく、真純先生も同じだとすれば……。
「真純先生は、何を見たんだろう……」
慕っていた祐一とのひととき、幼い真純と遊んだ記憶、そして……。
「天使像だ……」
かつて、祐一の屋敷のエントランスにあった天使像。それと同じ物が……。
「どうして……どうしてここにもあるの!?」
驚くべきことが目の前におきていた。あの、18年前に見た物と全く同じ天使像が、今美月の目の前にたたずんでいた。
なんでこんな隠し部屋に……。先生が、あの屋敷から運んできたの? いや、もしかしたら……あれと同じ物をこっそり作っていたの?
混乱する美月の意識が、さらに乱れた。いや、恐怖に取り込まれた。
「ひっ……!」
天使像の目が、動いた気がしたのだ。美月を睨んでいる……。
「う、うそ……止めて……怖い……誰か……」
慌てて、美月は隠し部屋から逃げ出した。
助けて……ティコ……。助けて……ユーイチお兄ちゃん!