P.E.T.S[AS]

第6話「動き出す悪夢」

ドアを開けた先には、誰も立ってはいなかった。辺りは既にとっぷりと日が暮れ、すっかり暗くなった夜空を半月がわずかに照らしている。
怪訝な目で周りを見渡すティコの視線が、一階へ下りる階段の前で止まった。

「ロック……」

数メートル先の階段の手前で、ロックは両腕を組んで立っていた。

「なんでこっちに来ないんです?」

暗闇のせいで相棒の表情が読みとれない。暫く反応が無かったため、ティコはロックまで変わってしまったのかと少し不安になった。だが幸い、彼の無二の相棒は返事を返してくれた。

「話がある。ちょっと来い」
「別にここでもいいでしょう。ご主人様も待ってますよ」
「いいから、来い!」

ロックに促されるまま、階段を下りアパートを出て、暗い夜道を暫く歩いた。完全に夜が支配する時間帯にも関わらず、駅周辺に比べて町の管理がなおざりなのか、点在する街灯の半分は明かりを灯していない。人工の光と区別して、今宵の月の光が確認できるほどだ。
数十メートル離れた、舗装されて間もない軟らかな道路の真ん中で、ロックは立ち止まった。

「ティコ、美月の具合はどうだ?」
「一応……頭痛は治ったようです」
「そうか……」

相棒が胸を撫で下ろすのを……ティコははっきりと確認できた。だがロックは再び固い表情を作って、ティコを静かに睨み付けた。

「お前……今まで、俺に何か隠してなかったか?」
「何の、話です?」

困惑が重なる日には、とことん重なる物だ……。暗い闇の中、いきなり疑惑の眼差しを向けられて、ティコは思った。だが普段と違い、今の彼に平静さを保つ余裕はない。何よりも、事実ロックには教えていない『特記事項』の存在が、否定しようのない重圧となって彼にのしかかっている。

「俺……今日一日中、色々考えたんだ……。今日の美月は……絶対普通じゃなかった……」

屈強そうな相棒の両肩が、かすかに震えている事にティコは気付いた。

「美月はどっちか捨ててどっちか選んだりなんてしない! ティコ、お前は美月がこうなるって、知ってたんじゃないのか?」
「ロック、何が言いたいんです!」
「おめーが……美月に、変なモーションかけたんじゃねえかって聞いてんだよ!!」

決定的な何かが……。恐ろしく冷たい何かが生まれた気がした。そしてそれは確実に二人の間を隔てていく。ティコは身震いした。黒い感情……そうとしか言い表せない、底意地の悪い小さな悪魔が脳髄を蝕んでいく……。当然、守護天使には似つかわしくなかった。だがそんな感情を生む原因となったのが、それまで少しの疑いの心も抱かずに付き従った、私たちのご主人様とは……。そして何より、何時しか主人を女性として見ている自分達にティコは愕然とした。では……なんだ……今私とロックは、一人の女性を手に入れようと、男として対立しているというのか?

「おめえ何時だってそうだ! いつも俺より、少しだけ何か知ってる。俺に何か隠してる! 俺に黙ってコソコソ何かしやがるんだ!」
「違う! 私は何も……」
「ティコ、お前は自分が何で死んだか覚えてるか? 俺は何も覚えてねえんだ! なんで火が恐いかも分からねえ! お前は俺が何で死んだか、知ってんじゃないのか!?」
「知りませんよ!」
「嘘つけ! しつじの世界で、俺に火のトラウマの事を初めて教えてくれたのは、おめえだったじゃねえか! 聞いたことあるぜ、『天界特記事項』ってのがあるんだろ。下の守護天使達を統率するための、限られた者達に許された天界の管理情報。おめえはその中身知ってるんだろ!?」
「ロック……」
「なんでだ、なんでいつもお前だけ特別なんだ! お前が一級守護天使で……俺がまだ二級だからか!?」
「止めてください……ロック……頼みます……」
「……ぐっ」

ティコの寂しげな表情が、ロックを押し止めた。溜まっていた不満を全て吐き出し、落ち着いたのか、ロックは肩で息をしながらじっとティコの顔を見た。
ティコは痛恨の思いだった。これまで秘密にしていた事が、それほどまでにロックを苦しめていたとは……。口では相棒と言っておきながら、その裏で彼の知らない特権情報を独り占めし、彼の理解できない行動理念をも持ち合わせる。もちろん、私たちがご主人様の元へ遣わされた第2の理由だって知らないだろう。確かにこれでは、真に対等な関係など出来ない訳だ。
ティコは守護天使に不可欠な物が、絆と誠実さだという事を、良く理解していた。ロックの信頼を取り戻すには、ギリギリの所まで話すしかない。

「ロック……あなたの言うことは……確かに当たっています」

凛とした表情で、静かに語るティコの眼差しを、相棒が受け止めた。

「私は、ご主人様をお守りする守護天使の長として、あなたの知らない情報と、権限を持っています」

神妙な面持ちで、ロックはじっとティコの言うことに耳を傾けている。大柄な彼の体が、今だけは小さく見えた。

「ですが、私はご主人様をお守りすると誓った事こそあれ、奪おうなどと思った事は一度たりとてありません! 互いに動物だった昔、私たちはご主人様を独り占めする事だけを考えていました。しかし、守護天使となって私たちは学んだ。主人を守るために、仲間との絆ほど強い味方は無いのだと。私たちは誓った。愛を求めるより、愛を捧げようと。それは、今のあなたも同じのはず」

出来る限りの、全てを言い切った。微塵の曇りも無い、ティコの本心だった。誰だって、不安はある。だがそれを乗り越えて、ご主人様を守り通すのが守護天使の務め。それは正に、美月を守る守護天使の長としての、ティコの確固たる信念の現れだった。
ロックは、首を思い切り後ろへ倒して、ずっと夜空を見上げていた。その間何を想い、何を考えていたのか……。暫くして、ロックは喉を詰まらせてむせかえったような笑いを上げた。

「ははっ……そうか、そうだな……」
「疑念は晴れましたか?」
「一応、な」

上り詰めた緊張が、一気に解けていくにつれて、自然と二人から笑みがこぼれていった。過剰な心配は無用だった。腹を割って話せば、誠意はちゃんと伝わる……。それは二人が無二の親友同士である事の、確かな証しだった。

「さあ、ご主人様の元へ帰りましょう」
「いや、俺、よいさに泊まる。厨房の棚が壊れてさ。修理の途中でちょっと抜け出さしてもらったんだ」
「そうですか……」
「ずっと不安だったけどよ。お前の覚悟を聞いて安心したぜ。お前こそ、早く戻れよ。美月が待ってる」
「ええ」
「時間取らせて悪かった。美月の事は明日まで任せたぜ、そんじゃ!」

 

 

 

静寂と暗やみが辺りを満たす、数十メートルの短い帰路を走りながら、ティコはずっと自分の内面と向き合っていた。相棒がぶちまけた不満は、彼の良心と既成認識を強く揺さぶった。ロックがあのような事で悩んでいたなど、考えもしなかったからだ。言ってくれなかったら、おそらくティコはずっと気が付かなかっただろう。

自分だけが知っている事があって、当然だと思っていた。自分だけにある権限があって、当たり前だと思っていた。疑問にさえ思わなかった。おそらく、それは天界で常に彼が特別な者として扱われてきたからだろう。
表向きはみんなと同じだった。皆と共に過ごし、共に笑い、共に泣いた。だがティコは天界の裏側で、エリートとして扱われた。その運命を彼は当然の様に受け入れた。何故なら、彼は守護天使になる前から、『特別な存在』になる事を運命づけられてきたからだ。ある者の手によって……。

ロックには、まだ話していないことがある。主人である美月の記憶を、ティコが封印した事だ。最も、全部か一部か、どの部分の記憶の隠蔽が目的だったかは、彼の知るところではない。だが、封印した以上、既に脳の記憶野の表面に現れている事柄以外は、二度と思い出せなくなっているはずだった。それが何故今になって意識の表面に現れてくるのだろう。ティコの懸念はそれだけではない。記憶封印の事実をロックが知ったら、彼はティコを許してくれるだろうか。独り占めしない……。そう言っておきながら、彼はロックに一つの秘密を作ったばかりか、主人に関する事実を独り占めにしたのではないか? それどころか、主人をいいように操作し、傷つけた事になるのではないか? 天界に命ぜられた事とはいえ、記憶封印が彼女にとって本当に無害なのか、確証はティコ自身にさえ無いのだ。

絶えることのない自己追及に疲れを覚えた頃に、運良くアパートへ辿り着いた。何故だろう、自然と足取りが軽くなるのは……。ティコは苦笑した。主人を守っているつもりでいながら、実はあの人に心の安定を求めているのかも知れない。守護天使として一人前にはなっても、結局、まだまだ自分はペットから完全に抜け出せていない。私も、相棒の事をとやかく言える口ではないか……。

「戻りました。遅くなって申し訳ありません。ご主人様、気分はいかがですか」

玄関ドアを閉め、居間に入ってテーブルの上の体温計を拾い上げた。念のため、また計ってみよう。まだ調子が悪い様だったら、嫌がる彼女には悪いが、明日にでも病院に連れて行こう。

「ご主人様」

向こうの和室からは何の反応も返ってこない……。ティコが出た時のまま、電気をつけていないのか、襖の隙間からは暗闇だけが覗いている。もう寝てしまったのか?

「ご……」

非日常は、なおも続いていた。それは膨張を続け、今度という今度はティコの精神を狂わしかねない程に、決定的な現実となって彼の目の前に現れた。皮肉にも、それは目には見えざる現実なのだ。
襖を開けたティコの視界に、ご主人様は映っていない。映らなければならないはずだ!
半分まくれた掛け布団の残りを、ぺしゃんこなのを知っていながら全部まくった。彼女の好きな夕焼けは終わったが、ベランダにわずかな望みをつなげた。次に台所、トイレ、風呂……考えられる全ての空間の探索が無駄に終わるに連れ、事態の重大さはティコを完全なる混乱に陥れた。

ご主人様は、何処へ消えた!?


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