ティコが買い出しから戻ってくると、美月の布団は藻抜けの殻だった。
「ここだよ。ティコ」
声のする方に向かうと、彼女は既に着替えて、ベランダで夕日を浴びながらうんと背伸びをしていた。
「そんな所に出て、もう大丈夫なんですか?」
「うん、なんか急に楽になってきたよ」
ふうっと深呼吸をしてから、美月はティコに穏やかな笑顔を向けた。西日の為か、彼女の顔と肌が、綺麗な小麦色に輝いて見える。それを抜きにしても、朝の不健康そうな青白さは完全に消え去っていた。
「それは良かった。薬が効いたのかもしれませんね」
ティコもベランダの縁に肘を立てて、主と共に夕日を眺めた。
ご主人様と私……ロックの三人で眺めたことは以前からあるが、二人っきりでというのは、そういえば初めてだった……。ティコは妙に新鮮な気分になった。
「ふふっ……私、夕焼けって大好きなんだよ」
美月の長い髪が、緩やかな風に揺れている。艶のある黒髪……夕日の日差しで、綺麗な橙色に透き通っていた。彼女の横顔を見て、ティコは少し嬉しくなった。元気を取り戻した主人に、そしてそれまで彼が意識しなかった、不意に可憐な美しさを見せる彼女に……。
美月は自分の首に掛かっているペンダントを手で弄りながら、ティコに顔を向けた。
「ねえ、ティコは昔のこと、どれくらい覚えてる?」
「どれ位? ああ、もしかして、一昨日の帰り道の……続きですか?」
「へへ……そうそう、続きだよ」
美月は何時になく上機嫌だった。彼女は縁に掛けた両手の上に顔を寝かせて、ティコの目をじっと覗き込んだ。まるで彼の瞳を透かして、遠い昔の思い出を覗き込んでいるかのようだ。
ティコは暫く思案した。彼女に伝えて良い事と、まだ伝えてはならない事がある。守護天使としての制約……いや、それはむしろ彼等の特別な事情による理由だった。言葉を選ばなければならない……。
「確か……18年前にも……三人で夕日を眺めた覚えがあります」
「……そう……だっけ……」
美月が、少し意外そうな顔をした。
「覚えてないんですか?」
「ううん、確か、前……見たような気がする……。それに……きっと……また思い出すよ」
彼女の言った意味が、ティコには良く分からなかった。
「あのね、ティコ。私……」
彼を見つめる美月の表情に、かすかに陰りが生じたのを、ティコは敏感に感じ取った。
ほっそりと、彼女が口を開いた。
「ついこないだまで……昔の事、ほとんど思い出せなかったんだよ」
さっきより風が……少し強くなったように感じた。美月の髪の毛が、風に煽られて少し乱れた。涼しい風がティコの頬を撫でていき……そのひんやりとした冷たさはティコの内側にまで入り込んだ。
「どうして……思い出せたんですか?」
聞かずには居られなかった。一昨日の旅館への帰り道……。あの時の会話……。ご主人様は最初から覚えていたのではなかったのか? 違うのなら、彼女に一体何が起こっているというんだ?
「夢に、ね……」
「……夢?」
ティコは、思わず彼女の言葉をオウム返しした。
「……夢にね……出てきたの……」
彼女の声が、急に脆く、儚く聞こえるようなった。夕日が沈み掛けている。まるで彼女の命が、夕焼けの終わりと運命を共にしているような……。
「色々……出てきたんだよ……。幼い頃の私……お父さんにお母さん……動物だった頃のあなた達……。毎日毎日見る、昔の思い出が……必ず……恐い位に内容が繋がってて……」
何故だ? 何故今頃ご主人様は思い出す……。
「子供だった頃の先生……ケンスケお兄ちゃんに……」
ティコは訳が分からなくなった。話が違う……。私は彼女を守る守護天使の長として……。
「それから……ユーイチ……おにい……ちゃん……」
私は……私は彼女の記憶を封じたはず!!
「ティ……コぉ……」
主人の変化に、否応なしに彼は気付いた。美月がティコにもたれ掛かってきた。胸にすがりつく彼女の華奢な体を、動揺を必死に堪えて彼は支えた。
「んっ……はぁっ……ティコ……」
彼女の息は荒かった。ティコの胸に顔を沈めて、彼女はしばらく息を整えていた。畏敬すべき女性の暖かい体温と、腕にかかる長い髪の感触が、ティコをとても落ち着かなくさせる。彼はわき上がる動揺を理性でどうにか封じながら、やっとの思いで主人に話しかけた。
「大丈夫ですか、ご主人様……」
「う……うん……」
乱れていた呼吸が落ち着き、ゆっくりと顔を上げた彼女の目は……心なしか潤んでいるように見えた。見つめる相手に、何かを求めるような……。
「ティコ……体が……」
「ご主人様?」
「体が……なんか……熱いや……」
とりあえず、彼女を抱えて部屋に戻り、再び布団に寝かしつけた。彼女の体温は確かに高く感じられた。頬は紅潮し、視線もどこかふらふらしている。さっきまでは良かったのに、一体どうしたというのか……。だが、危なげに見える症状にも関わらず、何故か美月は上機嫌に笑って見せた。
「ふふっ……私は大丈夫だよ。ティコ」
「本当に……大丈夫ですか?」
「うん、大丈夫ったら。うふふ……」
横向きに寝そべり、彼女はティコに向かって紅潮した顔を笑みで崩した。まるでアルコールを飲んでほろ酔いになっているかの様だ。彼女の汗ばんだ首筋から、いつか彼女が手に入れてはしゃいでいた、赤いペンダントが光って見えた。残された夕日のわずかな明かりを反射していたが、それもティコが再び美月の看病を続ける十数分の内に、完全に輝きを失っていった。
ティコは看病を続けながら、自分の頭がおかしくなっていくような錯覚を覚えた。それまでの常識や日常を逸脱した、違う世界に迷い込んだ気がしたのだ。主人が倒れたという、初めての経験。いつも共に行動するはずの相棒は、今日居ない。ご主人様は彼を追い出し、今は私と彼女の二人っきり……。いつも安らぎをくれるはずのご主人様は、さっきから私の顔を眺めながら、人が変わったようにうすうす笑っている……。
そう、今味わっている非日常の根源は……彼女だった……。
混沌とする思考の渦の中で迷うティコを、一つの電子音が現実に引き戻した。来訪者の存在を告げる呼び鈴の音……。どうしようか迷っているティコの背中を、主人の声が押した。
「大丈夫だよ、私は大丈夫だから……出てあげて……ティコ……」
「本当に、大丈夫なんですね?」
「うん……」
美月の部屋を出て、玄関に向かうティコの背中に、主の小さな声が投げかけられたが、彼には聞こえなかった。
「行ってらっしゃい……ユーイチお兄ちゃん……」