「た……助けて……くれ……。ひっ……」
硬いアスファルトの上に、最後の一人の胴体が打ちつけられた。鈍い音とともに、男の哀願はその言葉ごと激痛の渦に飲まれていった。無論、相手がその続きを汲み取ってくれる筈も無い。それどころか、相手は地面に倒れたまま苦痛にのた打つ、この哀れな男の首根っこを鷲づかんで持ち上げ、さらなる拷問を課そうとしているのだ。
自分の全体重が容赦なく首を引き延ばす。酸欠と激痛に気が遠くなりながらも、男は唯一動く目だけを動かして、周りの惨状を見渡した。辺りにはこの男と似たような風体の連中が、彼と同じような酷い有り様で地面の上を転がっている。男達の着ている、値の張りそうなスーツやジャケットも、今や自分たちの流血でもう二度と使い物にならないだろう。
最後に、男は眼前の相手の顔を見た。途端、強烈な眼光に射竦められ、彼は再び恐怖におののいた。
男は酷く後悔した。何故もっと早く気が付かなかったのだろう。
『こいつらは普通じゃない』……と。
男達は巷の暴力団組員だった。繁華街をぶらつく彼等に声を掛ける者などそうはいない。しかもケンカをふっかけるなど、一般人ならばよもや考えもしないであろう。実際彼等もそう思っていたため、突然背後から喧嘩腰で挑発してきたのが、たった一人の男と連れの女だと判った時は、激昂するよりも逆に笑いが止まらなかった。なんて馬鹿な野郎だ……と。
さっさと男を袋叩きにして、連れの女が恐怖にひきつる顔を見ながら、この女でどう遊ぶか、仲間達と贅に耽るつもりだった。それがなんで、なんでこんな事に……。
彼は自分の首を絞める男の手を何とか振り解こうとした。だが、もがけばもがくほど相手の手が食い込んで、意識が遠のいていく。自分の身長よりも二周りは大きいのだ。顔からしたってどこぞの外国人だろう。何も知らないよそ者が自分の首を締め上げている。極道に生きる彼にとって、本来ならばそれは例えようもなく屈辱的な事だった。
クスクス……という、女の笑い声がした。大男の背後から、やくざの残骸を踏み越えて、連れの女が姿を現した。彼と目が合うと、蔑むような笑みを浮かべる。大男とは対照的な、背丈が低くか細い女だが、その脆そうな容姿に彼等は騙された。驚くべき事に、彼の仲間の半分はこの女に倒されたのだ。
「……ルガール。こいつら全然手ごたえが無いわ。もうさっさと殺しちゃったら?」
女の口から放たれた言葉は、このやくざの男を心底震え上がらせた。華奢な体つきは二十歳未満の少女を思わせるが、腹部を大きく露出させた黒革のライダースーツに身を包み、目だけが赤くギラギラ光っている。唇には真っ赤な紅がさされ、先程からの高慢な薄笑いなど、見た目の童顔とのギャップが不気味なほどだ。
「フ……そう焦るなグレイ。こいつらにはまだ利用価値がある」
ルガールと呼ばれたこの大男は、意外にも流暢な日本語を発した。女とは対照的な、分厚い胸板や全身の強靱な筋肉を、漆黒のロングコートと革ブーツが覆っている。黒を基調とした服装と血のような赤い眼光が、二人の共通項だった。
男は『利用価値』の意味を理解できなかったが、女を諫めたこの大男の言葉にかすかな救いを見いだした。奴らが油断した隙に、なんとか逃げ出せる可能性がまだわずかに残されていると、彼は思ったのだ。だが、このやくざな命はすぐに知ることになる。
今目の前にしている相手は、『この世の者でない』と言う事に。
この者達と接触した時点で、始めから彼等の命運は尽きていたという事に。
彼等の居る繁華街の裏路地が、突如闇に覆われた。漆黒のベールで、四方が囲まれたと言っても良い。視界を完全に塞がれ狼狽した男は、無条件に目の前の大男に視線を戻さざるを得なかった。
そして彼は見た。自分を締め上げている大男そのものが、闇と化している有様を。グレイと呼ばれた女もまた同様だった。周囲の闇よりも暗く、彼等の目だけが、肉塊から吹き出したばかりの鮮血のように、生々しい真紅の光を放っている。
「ひっ……ばっ、化け物っ……」
「クックック……化け物だと? 貴様らのような愚物に言われる筋合いはない」
「フフ……だから殺しちゃえばいいのに」
女と視線を交わして、巨大な闇黒存在が口元を歪めるのを、男は見た。そして断末魔の恐怖を感じる前に……幸運にも彼の精神は崩壊した。
「フン……」
首を吊った死体の様に、だらりと動かなくなった男の体を、ルガールはつまらなそうに地面に投げ捨てた。
「ジード、何処に居る?」
彼の呼び声から暫くして、漆黒のカーテンの向こうから、新たな一体の影が現れた。
シャアアアアアアアア……シャアアアアアアアア……
その闇存在から、底冷えのする獣のような、掠れた吐息が聞こえてくる。音源である口元はいびつに出っ張り、人としての形をしていなかった。背筋はひん曲り、さらに異様に長い腕と脚が、この影を三人の中で最も『魔物』にしている。
「兄者ァ……ヨンダカァ……?」
「偵察の方はどうだ」
「キシ……キシシシシシィィィィィィィィィヒヒヒヒヒヒヒイヒヒ……ヒ……」
言葉もろくに紡げないのか、ジードは口元を痙攣させ、既知外のように不気味な笑いをひり出した。
「ヒヒ……ァ……見ツケタゼェ……守護天使ダ……」
守護天使という言葉を聞いて、ルガールとグレイは不敵な笑みを浮かべ、血の色に染まった目をぎらつかせた。
「守護天使の……ロックね……」
「ソウダ……ァ……ロック……ダ……」
ルガールが、近くに横たわる男の腹を蹴りつけた。……男に反応は無かった。
「ジード、指令を与える。守護天使ティコ、ロック……どちらかを潰せ。このゴミどもを使ってかまわん」
「ヒィィィィヒヒ……ヒ……任セロ……兄者ァァァ……」
辺りを覆う暗黒のベールが、徐々に揺らぎ始めた。見るとグレイがかざした掌の向こうで、ジードと辺りに散らばる男達の残骸が、ずぶずぶと黒い地面に埋もれていく。
「フフ……ジード。精々頑張って……ね……」
体半分ほど埋もれたジードの目が、声援を送った女を睨み付けた。明らかな敵意の目だった。だがジードの赤き目も……すぐに埋もれて見えなくなった。
同胞を見送った後、残った二人の影は暫く黙っていた。
「……グレイ、奴らの主の方はどうした」
「あの女? 私が邪眼を掛けてから……二日は経ったかしら。もう十分苦しんだろうから、そろそろ楽にしてやらないとね」
「フン……お前の事だ。今度は違う仕掛けを仕込むんだろう」
言い当てられるのを半端予想していたかのように、グレイはクスクスと笑い出した。
「もう少しで……『復活』が叶うわね」
「そうだ。 『恐るべき天使』……憎き天界を葬り去る、大いなる偽天使の復活だ」
悪夢が広がっていく。この闇の存在達は、自分たちの持て余す闇を、あらゆる領域に解き放とうとしていた。人の住む場所に、神の住む場所にさえ……。