美月達が住んでいるこの街は、日本の首都から十数キロ離れた県境にある。本当にその県の隅っこにあるので、一番近くの都市に出かけたいと思ったら、それこそ首都東京に向かった方が早い位である。大都市でなければ置いていない品物や、日本で最も新しい流行と刺激が欲しければ、そちらへ赴けばよい。
だがそこまで行かずとも、この街には数年前に駅と合体する形で作られた大手デパートがあり、カラオケ施設やスポーツ施設、それに群がるように商店街が軒を連ねる。郊外だからこそできる、大型の図書館や管理の行き届いた公園も、そう遠くない距離に互いに隣接する形で存在する。つまり、日常の大抵の要求ならば、すんなり満たしてくれる良い環境に、人々は恩恵を与っているのだ。余談だが、日本最大級のテーマパーク施設が、東京ではなく実はこの県に位置している事は言わずと知れた事実である。
だが美月達にとって少しだけ問題なのが、彼女達の住んでいるアパートが駅からは少し離れた場所にあるという事だろう。それだけに、近所の商店街モールが駅前のデパート群に押されずに、今でも活気を保っているのはなによりも心強い。
そんな彼女たちの生活を影ながらサポートしている商店街モール、その一角に一件のソバ屋がある。
店の名は「よいさ」。この店は地元ではちょっとした人気を誇っているのだが、それには少々特殊な、様々な要因が絡んでいる。味が良いのはもちろん、店内の雰囲気が異様に明るいのである。内装は特に可もなく不可もなく、取り立てて目立った特徴のない、ごく普通のソバ屋なのだが、ここで言う明るい雰囲気の根源はそこで働いている従業員達にある。常に明るく朗らかなこの店の女将、そして今年中学1年生になる彼女の娘。特にこのわずか13歳の看板娘の存在が、これまでこの店の客の再来店率を大きく引き上げてきた。可愛らしいおかっぱ頭、まるで大正ロマンを思わせる花柄の着物にひらひらのフリルが付いた白エプロン。ちょっとした事ですぐ恥じらいの表情を見せるこの少女は老若男女問わず、この店を訪れるみんなに可愛がられている。特に、これは本人の望んだ事では無いのだが、中年の男性、いわゆるオジサン層のハートをガッチリ掴んでおり、中には彼女見たさに毎日足を運ぶ猛者も居るほどである。
だがここまでは、この店にとってまさに日常そのものであり、周囲の人々から見ても別段不思議に思う所は無かった。この店が変わり始めたのは、その後である。
変わったと言っても、それはもちろん良い変化だった。ある二人のアルバイトを雇ったことによって、さらにこの店は繁盛したのである。その二人が守護天使ティコ、そしてロックである事はもはや言うまでもない。この二人が雇われて以来、彼等見たさに女性客も増えだした。とくにティコの場合は小学生から大人まで、熱心な女性ファンが出来てしまい、一日の来客の3分の1はまるでファーストフード店を思わせる程に、若年層の女性が占めるようになってしまった。中には真純のようにティコにちょっかいを出す者も出始めて、本人の当惑はもちろん、彼に密かな恋心を寄せるこの店の看板娘をもしばしばやきもきさせている。噂ではティコに対して非公式にファンクラブが結成されてしまったという話もあるのだが、まだその凶報が彼女の耳に届いていないのは不幸中の幸いだろう。
そんなこんなで、店の売り上げは増える一方なのだが、それまで不特定多数の人間と関わりを持たなかったティコやロックに対して、最近のこの店の大混雑は少なからずの戸惑いと、人間に対する様々な考察の機会を与えていたのである。
だが今日という日に関しては、大繁盛この上無しという近頃のよいさの通説は、当てはまらないかもしれない。
もちろん、その原因はこの店の運営と売り上げに多大な貢献をしている、強力なアルバイトの一人が抜け落ちている為だ。
「ありがとうございましたー! はぁ……」
最後の客を送り出して、守護天使ロックは深い溜息をついた。
「なぁ〜んで、こうなっちまったんだろうな……」
まさかあれほどはっきり言われるとは、ロック本人はもちろん、ティコだって思わなかったに違いない。言われた後、ロックはしばらく開いた口が塞がらなかった。主人が自分の家族に向かって選り好みした……。それまでの彼女からしてみれば、到底考えられない事だった。彼女が少しだけ申し訳なさそうな顔をロックに向けたのが、せめてもの救いだったのかも知れない。それでもガチガチに固まった笑顔を主人に返してから、バイトが始まって数時間経った今でも、ロックの心と体はずっとバラバラに動いている。
今までの彼女は、どんな時も二人に平等だった。たまに二人が言い合いをする時であっても、分け隔て無く与えてくれる彼女の笑顔が、全て丸く収めてくれた。それはロックとティコが動物だった頃から続いていた事だ。もっとも、その頃の二人は顔を合わせるたびにケンカをして、それを止めるのは彼女の笑顔ではなく、怒り顔か泣き顔のどちらかだったのだが……。
それから18年の歳月が過ぎ、最愛の主人の元へ帰ってきてからもうすぐ一ヶ月。いつの頃からか、生活面でも精神面でも、ロックとティコは自然と役割分担をするようになった。ティコは料理、ロックは買い出し。ロックがふざけてティコが諫める。そんな二人をいつも主人の優しい目が見つめていた。
転生してからというものほとんどケンカ無しでやってこれた理由は、守護天使となった二人が協調の重要性を学んだ事だけではない。美月の底抜けの、分け隔て無く二人に注ぐ愛情が、ロックとティコの最大の安心材料になっていたことは間違いなかった。
そのバランスが今になって、何故崩れ始めてきたのか……。ロックには皆目見当が付かなかった。
「あの……ロックさん。お疲れさまです」
「ん? ああ……」
テーブルを拭く手を休めたまま、突っ立っているロックに、エプロン姿の少女が声を掛けてきた。
この店の看板娘、喜里川霞(きりかわかすみ)は大人に引けを取らないくらいの仕事量を常にこなしているが、その容貌は年相応の子供っぽさがまだまだ残っている。今日はいつもより客足が鈍いが、それでも自分から率先して仕事を見つける懸命さは、彼女の真面目な性格と、この仕事への並々ならぬ愛着から来ているのだろう。
「この間はありがとうございました。旅行に誘っていただいて……」
「良いって良いって。楽しかっただろ」
「はい、とっても」
かすみはお盆を胸に抱えて、とびきりの笑顔を見せた。以前なら自分の感情をおおっぴらに他人に見せることは無かったのだが、先日の旅行を機に、ロック達とは大分うち解けている。だが今のロックにとっては、そんな彼女の笑顔が逆に彼を気落ちさせてしまう。旅行前と今とで、自分たちの何かが変わってしまった。そんな疑念が今朝からずっと、彼の脳裏を蝕んでいる。
「あの、ティコさんは……今日、どうされました?」
急に声のトーンを落として、かすみが尋ねてきた。ロックはイライラしてきた。かすみもティコ、真純もティコ、ここに来る女達もティコ、そして美月もティコ。どいつもこいつもティコ。
ティコ、ティコ、ティコ……。
動揺と苛立ちを押し殺して、ロックは今朝の出来事について話した。やはりかすみは驚いた様子を見せ、深刻な表情でロックを見つめている。
「で、ティコの奴は、今日は美月の看病ってわけさ」
「ティコさんが……看病ですか……」
かすみは持っている盆を握りしめてそわそわしている。彼女が気にしている事は分かる。それは今のロックも同じなのだ。今頃二人はどうしているのか。少なくとも、ティコが主人の看病をしっかりこなす事は想像が付く。美月の容態がこれ以上悪化しない限り、心配は無いはずなのだ。それ以外の事が起きない限り……。
「あ、あの……私も……、その、お見舞いに行ってもいいでしょうか」
「……今は美月、大分辛そうだからな。明日なら大丈夫かも」
そう言いつつも、ロック自身、今すぐアパートへ飛んで帰りたかった。主人の顔が見れない事に、彼がここまで不安を感じた事は今まで無かっただろう。実際帰れるのは夜になるが、それまで落ち着いて仕事に集中できるのか、ロックは居ても立ってもいられなくなってきた。
「あのさ……かすみちゃん、俺……」
ロックが口を開いた刹那、近くで大きな音がして、かすみが飛び上がった。
「きゃっ……あ、あれ……何があったんだろ……」
音のした厨房から、かすみの母親が出てきた。
「ああ、二人とも。ごめんねぇ、驚かせちゃったかい?」
「何があったんスか?」
彼女はいつもと少し違う、苦笑いを浮かべた。
「それがねぇ、厨房の天井の棚が崩れ落ちちゃってね。ほんとにもう建て付けが悪いと困るわよ」
大抵の事なら笑い飛ばして済ませてしまう彼女だが、さすがに今回の事は痛手だったらしい。落ちてきた瓦礫や食器の所為で、調理に多大な影響が出てしまっているそうだ。奥では料理人を担当するこの店の主人の、痛恨の叫び声が聞こえてくる。
「ロック君。悪いけど、直すの手伝ってくれるかい? 力仕事になりそうなんでねぇ」
ロックが一番心配になったのは、たった今起きた事故でなく、帰宅時間だった。だが単なる接客より力仕事の方が気が紛れる、そう自分に言い聞かせた。
「すみません。ロックさん……」
彼女が謝る必要はないのに、それでも謝るかすみの気心が、今の傷心のロックにはありがたかった。
さっさと済ませて早く帰ろう。今の彼にはその事しか頭に無かった。だから、これまで得体の知れぬ、黒い影のようなモノがずっとこの店の様子を窺っていた事にも、もちろん、彼は気付けなかった……。