早朝から玄関の呼び鈴を鳴らされて、いい気分になる者はいない。それも毎日ひっきりなしに電話だのなんだのと、自分の主人にアクセスを試みてくる知人であるならば。
だがそんな薄幸(?)の主人を守るべき立場である守護天使ティコはこの日に限って、来訪者の為にドアロックを解除する事を躊躇しなかった。
「来てくださいましたか、先生」
「おはよ、ティコ君。朝っぱらから、随分と疲れた顔してるじゃない」
疲れている? そう言われて、ティコは初めて自分の動揺が顔に出るほどのレベルに達している事に気が付いた。彼女は彼女で事情をしっかり飲み込んでいる様子で、いつもの様にティコにちょっかいを掛ける事もせず、室内へ上がると単刀直入に今回の呼び出しの原因について聞いてきた。
「で、美月が倒れたって、どういう事なの」
ティコは曖昧に首を横に振った。それはまさに現在の事態把握の困難さを物語っていた。珍しく朝早くに独りで起きたと思ったら、急に頭を押さえて苦しみ始めたのだ。昨夜頭を打ったわけでも、悪い物を食べたわけでもない。旅行の疲れにしても頭痛を訴える原因とは考えにくい。とりあえず再び布団に寝かせ、相棒のロックと共に必死の看護に当たっているが、今のところ頭痛が収まる気配はない。
「なんで病院に連れてかないのよ」
「それが……本人がどうしても行きたくないと……」
「ぶっ倒れたんでしょ? そんな事言ってる場合じゃあ……」
居間に入り、さらに奥の襖を開けると、6畳程の部屋の中央に彼女は居た。朝村美月は先程と変わらず、敷かれた布団の中で苦しそうに呻いていた。パジャマ姿で少し髪が乱れた頭と、額を右手で押さえている。ぼんやりと開けた目が来訪者を見つめると、ほんのわずかだが笑みを浮かべた。意識はちゃんとあるようだ。その隣ではロックが居たたまれない表情で主人の看病を続けている。
「先生、おはようス。まあ……今、美月はこんな感じで……」
「せんせぇ……おはようございます……」
弱々しい口調で美月が言った。頭痛を堪えている為か、半分溜息のような声。真純を見ると、彼女も何か痛ましい様子で美月を見つめている。
「確かに、大分辛そうね。原因が何か本当に分からないわけ?」
声を紡ぐのもきつそうな美月に代わって、ティコは答えた。
「症状は頭痛と倦怠感だけ。体温は平熱ですから、単なる風邪でもなさそうですし……姉さんも心当たりは全くないと……」
「ほんっとうに、心当たりないの?」
そう追求されて、ティコは一つの出来事に思い当たった。
一昨日の夜も、ご主人様は倒れたじゃないか。栃木の旅館から少し離れた薄気味悪い雑木林で、彼女は失神していた。正直、発見した時は通り魔に襲われたのかと肝を冷やしたが、確かに、そうでないなら一体何が彼女の意識を奪ったのだろう。ティコは今まで気が付かなかった自分の至らなさを、激しく責めたくなった。もっと早く気づいていれば、容態が悪化する前に何か手を打てていたかもしれない。ご主人様が倒れてしまうことだって……。
「姉さん。昨日の夜も、あの林で倒れてましたね。何があったか、覚えていませんか?」
美月はしばらく考え込んだ後、ゆっくりと返答した。
「うん。ごめんね……よく、覚えてないんだ。すごく……気味悪い所だったから、すぐ戻ろうとしたのに……えっと……いつの間にか……」
言葉を紡ぐのも苦しいのか、主人の息が荒くなってきたので、ティコは静かに彼女を制止した。額を触ってみる。やはりごく普通の、人肌の体温。一体何が彼女を苦しめているのか……。
「先生……」
「うん」
真純はティコの意図を読みとると、足下に置いたバッグを拾って、美月に話しかけた。
「今日は……仕事は無しという方向で、よろしいね? 美月ちゃん」
「あ……はい。すみません……先生……」
いつもは何かにつけて自分のアシスタントをいびる真純も、このような事態ともなればちゃんとそれ相応の、適切な配慮をしてくれる。以前にも何度かあったが、そんな彼女の優しさと頼もしさが、美月本人だけでなくティコやロックにも、ただ毎日顔を合わしているからという理由以上の信頼を、抱かせているのだ。
「んじゃ、私も今日はのんびりしますか。じゃあね」
気分の切り替えも早い。さっさと帰ろうとする真純を、ロックが呼び止めた。
「美月がいないと進まない仕事なんスか?」
「ん? いや……そんなんじゃないけどね。実は、私も今日は少し調子が……」
「悪い?」
「いや、悪いっていうか……。変な夢見てさ」
「どんな夢?」
ロックには遠慮の「え」の字もない。だが相手に不快感を与えないのは、彼の天性の素直さのおかげでもある。180センチのティコの長身をも越える大柄な体格と同じく、彼の性格も真純に劣らず、些細な事にはこだわらない器量を持っている。と言えば聞こえは良いが、やはり端的に言えば『おおざっぱ』か……。ティコも真純の発言には興味を持ったが、こういう時にロックの存在は役に立つなどと少々自分勝手なことを考えてしまう。
真純は苦笑いを浮かべると、何かを振り切るように、ばっと天井を見上げた。
「親父の夢よ。だいっキライだったの、アイツ。それじゃね」
そう言い捨てると、彼女はまっすぐに玄関を開けて出ていった。『あんまり調子悪いなら病院に行け』、そう言い残して。
部屋には、ティコとロック、そして必死に苦しみに耐える二人の主人だけが残った。
「だいっキライ……か……」
布団に伏せている美月が、小さく呟いた。相変わらず片手でじっと額を抑え、止むことのない頭痛に耐えている。細い腕で彼女の顔の幾分かが隠れているが、やはり血色が悪さが目立つ。時々受ける彼女の少々脆そうな印象が、さらに際だって見えてしまう。今は上の空で、彼女は何か考え事をしているが、その間もきっと痛みは続いている。ティコは出来ることなら、身代わりになって苦しんであげたいと思った。おそらく、ロックだってそう思っているだろう。やり切れない思いだけが時間(とき)を刻んでいた。
時と言えば、二人の守護天使達にはそろそろアルバイトの時間が迫って来ている。
そしてそれを悟った美月が二人に向かって言った言葉は、うわべだけでも十二分に気丈な物だった。
「二人とも、行って来なよ。バイト」
「はぁ? そんなに辛そうな美月残して行けねぇよ。なあ? ティコ」
もちろんティコも同意した。頭痛を肩代わりする事はできないが、二人が居るだけでも多少は気分が紛れるというものだろう。今でさえ満足に起きあがれない程に苦しんでいるというのに、たった一人で彼女が約半日もの間、苦痛を耐え抜くのは土台無理な話だ。そもそも苦しむ主人を放って仕事に行くなど、守護天使としての責務にも反する。だが、彼女の発言に潜む思いも、ティコにはなんとなく分かる気がした。
少しでも主人としての貫禄を示す事によって、彼女は自分を鼓舞しようとしているのだ。見れば、本当に小さく、華奢な女性である。だがその高潔さを持って、自分たちに少しでも安心を与えようとする彼女の決意に、ティコは胸が締め付けられる思いがした。だが『高潔』の文字も、彼女がその細い体を苦痛に震わせるたびに、ティコには『悲壮』の字に取って代わられる様に感じてしまうのだ。
「ご主人様。私たちは、今日のアルバイトを休みます。ご主人様の容態が、何よりも大事です」
だが、彼女は首を縦に振らなかった。
「よいさのおじさん達に、迷惑かけちゃだめだよ。かすみちゃんだって……」
「じゃあ、こうしたらいいんじゃねぇか? どっちか一人がよいさでバイト。そしてもう一人が……」
「ここでご主人様の看護……ですか。いいかもしれませんね。ご主人様それなら、いいでしょう?」
美月は何も言わず、目を細めた。わずかに口元に笑みを浮かべている。それを見て、何故かティコは自分たちが動物だった頃に還った気がした。彼女の笑みが、まるで子に対する母親のそれを思わせたからだ。いや、正確に言うならば……ペットに対する主人としての愛を……。それとも、今のは気のせいなのか?
「それじゃあ決まりだな。で、どっちが残るんだ? もちろん俺こっち希望」
主人の笑みを肯定と受け取り、早くもロックは決定を急いでいる。確かに、バイトの始まりまでもう余裕は無かった。だがティコの口をついて出たのは、何故か相棒と全く同じレベルの言葉だった。
「ロック。あなたに務まるんですか? こういう細かな配慮を要する仕事にはやはり……」
何を言っているんだ? 時間が無いんだ! 分かっているのに、ティコは自分の意図がさっぱり分からなかった。どうして自分まで熱くなってしまうのか……。これじゃいつまで経っても決まらないじゃないか。
ついに見かねた二人のご主人様が、助け船を出してくれた。ティコは痛恨の思いだった。苦しみに耐える主人に、余計な手間を掛けさせてしまった……。だがその後悔も、次の彼女の言葉でどこかへ吹き飛んでしまった。彼女の言葉が、新たな、そして決定的な動揺を二人に与えたからだ。
「私が……どちらに残ってもらうか、決めるよ。それなら、二人とも……文句はないよね?」