P.E.T.S[AS]

第6話「動き出す悪夢」

辺りはまだ薄暗い。
時刻で言えば明け方の5時ごろ……藤原真純宅の工房もまた、その無機質な空間は薄闇に包まれている。本人の性格を表しているとも言える、シャッターを閉めることなく常に開放された天窓からも、若干の月明かりが差し込む程度である。そのわずかな明かりに照らされて、金属製の棚に所狭しと置かれている物が、この工房の主が創った天使の人形だと判る。彼女たちは皆微笑んでいたが、その曖昧な微笑みは、見る者、観察する角度、光の差し具合によっていかなる意味にも取れる。
今の彼女たちの笑みは……そう、何かを待っている様に見えるだろう。息を潜めて。これから起こりつつある予兆を……。

部屋の一角に差し込む、ひとつの明かりと影がうごめいた。そこにはコンクリート製の床から一段高い木造のスペースに設置された、仮眠ベッドがある。そこで眠っていた人間が起きたのだ。
ゆっくり、むっくりと、サナギから孵ったばかりの成虫のように、彼女は起きあがった。
この時の藤原真純は、どこか疲れ切っているように見えた。半身を起きあがらせたまま、片手で顔を押さえている。薄く開かれた眼は虚ろで、まだ精神が覚醒しきっていない事を示している。夜遅くまで何かやっていたのか……彼女は薄地のブラウスにジーンズといった格好だった。
真純はベッドから降りて、しっかりとした足取りで歩き始めた。だが人が見れば、これはどこか奇妙な光景に見えるだろう。

彼女の目は、まだ虚ろなままだった。

彼女はコンクリートの床に裸足で降りて、そのまま工房の白い壁に向かって歩いてゆく。
壁の前で立ち止まると、彼女は何か取り出した。
鍵だった。薄闇の中、手探りで壁をなで回し、何か見つけたかと思うと、その鍵を白い壁に押し込んでいく。小さな鍵穴が隠してあったのだ。鍵は容易く穴に飲み込まれた。固い金属音の後、壁がドアへと役目を代え、そしてそれまで誰にも知られていなかった部屋が現れた。
真純は音も立てずに中へと進入してゆく。その部屋は6畳間程度の広さで、辺りには至る所に何かの道具や工具が散らばっている。何の為に此処は存在しているのだろう。秘密の部屋である事は確かである。その性質のため、外から悟られぬよう、窓は一切設置されていない。
暗闇の中で平気なのか、真純は電気を付けようともしなかった。そのまま部屋の中央にゆっくり進み出ると、彼女は立ち止まって薄笑いを浮かべた。

彼女の目の前に、何かが在る。
暗闇に溶け込むかのように、それはこの部屋に完全に調和していた。大きさはちょっとした小物や置物の範疇ではない。そしてその形状……。
人の形をしていた。大きな、等身大の人形である。
腕、脚、胴体、首……全てが有機的で、その輪郭は滑らかに女性的なカーブを描いていた。ささやかだが確実に男のそれとは違う胸の膨らみからも、それが女性の像である事が分かる。しかし、唯一、彼女を人間からかけ離れたものにしている部分がある。それは彼女の小さな背中から生えだして、両脇へ控えめに伸びていた。大きな羽根である。さらに頭に被さっている輪……身に纏っている白衣……。その女性は天使だった。
真純は、彼女の顔を覗き込んだ。彼女の背は長身の真純よりずっと小さいが、台の上に載っている為、真純は像を見上げる形になる。
真純の顔が緩んだ。だが、彼女の目は色を失い、瞳孔だけが大きく開いている。両腕をダランと垂らして、力の抜けた様に突っ立ったまま……。もはや正気を持っていない事は明白だった。突然、放心状態に見えた彼女は目を大きく見開き、口元を歪めた。笑ったのだ。

「完成したね……フフ……真純……頑張ったでしょ?」

誰に向けて放った言葉だったのだろう。彼女の声は、本来のアルトからまるで子供のようなソプラノに推移していた。暗闇の中を、狭い空間や壁の素材の所為か、彼女のつぶやきは何重にも増幅されて辺りに反響する。

「真純……一生懸命頑張ったんだよ……お母さん……フフ……」

彼女は目の前の像に向けて、愛おしそうに呼びかけていた。この天使像のそれが、彼女がついに一度たりとも見る事のかなわなかった、亡き母親の素顔なのか……。いや、彼女は天使像の顔を通り越して、遙か虚空に焦点を合わせていた。ありもしない母をそこに見いだしたのか……彼女の顔が更に喜悦に歪む。

「アイツがね……とうとう出来なかった事を……真純はやり遂げたんだよ。この子をね、あたしの手で完成させたの……。だから……」

そして何かの線が切れたかのように、ケラケラと笑い出した。

「アイツをね、とうとう超えたんだよ! お母さん! あたしはもうアイツから自由になったんだ! あはははは!」

狂った笑い声は狭い部屋をこだまさせ、空気を冷たく震わせた。天使像はそんな陰惨な光景に対しても、やはり曖昧な笑みを返すだけだった。共に喜んでいるのか、または哀れんでいるのか、あるいは……彼女を嘲笑していたのかもしれない。
真純は高笑いを止めると満足そうな笑みを浮かべ、天使像に背を向けて歩き始める。意識が高揚しているのか、すぐに小走りになった。暗がりの所為で所々つまづきながらも、暗い秘密部屋を出て、彼女は何かに取り憑かれたかのようにその場で踊り出した。

「フフ……あはは……は……」

振り付けも何も無い、ただくるくる回るだけのダンスだった。しばらく踊り続け、足下がふらついた真純は、その場に崩れ落ちた。そしてそのまま動かなくなった。

 

 

 

 

彼女が再び動いたのは、数時間後の朝の事だった。
工房のテーブルに置かれた、コードレス電話が鳴り出したのだ。静寂をうち破る電子音に顔をしかめて、藤原真純はうつぶせに倒れた体を起きあがらせた。もはや数時間前の出来事を覚えていないのか、自分と周りを不思議そうに見渡している。
けだるい表情でテーブルに向かい、彼女は受話器を取った。

「はい……ああ、ロック君おはよう。……美月が? ……分かった。すぐそっちに行くから」

もはや正気は取り戻している。真純は手短に電話を切って、身支度を整えた。
日常と常識は、人間にとって大きな力だ。確かな存在感があり、心の安定をもたらし、結論への過程を簡略化する。楽なのだ。この二つの力の前なら、大抵の疑問は容易く消し飛んでいく。
工房のドアを開けて出ていく時、彼女は膝に痛みを覚えた。

「きっとベッドから転げ落ちたんだわ……ツイてないなぁ。変な夢だって見るし……」

これから、その日常と常識が音を立てて崩壊していく事を、彼女は知らない。


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