今日のお兄ちゃんのお屋敷は、何かいつもより慌ただしかった。
作業服を着た何人もの人たちが、青いビニールで包まれた大きな何かを屋敷の玄関へと運び込んでいる。『それ』は大体縦に長いのだが、途中、脇が少し盛り上がっていた。大きさは人間の背の高さとそう違わない。
「ねえお兄ちゃん。あの人達何してるの?」
「天使だよ。昨日見たがっていただろう」
天使! すっかり忘れてた。
初めて直に見る天使というモノは一体どんな感じなんだろう。早くも興奮を押さえきれない。ロックの時もティコの時もそうだが、自分と違う存在に対して、私は昔から常に並々ならぬ興味を引かれる子だった。
「父さんの話だと、なんでもエントランスに置くそうだ。全く、まだ未完成だって話なのにね」
私はお兄ちゃんの話も上の空で、玄関にゆっくりと運び込まれつつある天使の包装をずっと見つめていた。
「ねえ、見に行って良いかな」
「ああ。まあどっちみち、玄関には入らなきゃならん」
ユーイチお兄ちゃんは、かすかに笑って言った。
設置が完了し、天使はその姿を覆い隠しているベールをいよいよ剥がされようとしていた。
一体どんな姿をしているんだろう。羽根があって、頭の上に輪っかがあって、とても優しそうな顔をした美しい女性が優雅な笑みをたたえている。そんな半分期待をこめた想像を私はしていた。
一枚、また一枚、ビニールが剥がされてゆく。
一番はじめに足が見えた。白くほっそりとした素足が台座に固定されている。
そして胴体、両腕、大きな羽根が現れる。ビニールが両脇に出っ張っていたのは、控えめに左右に広がる羽根のためだったようだ。
私も、ユーイチお兄ちゃんも何もしゃべらずにただじっとその作業を眺めていた。
そして、最後に顔に巻かれたビニールが取り払われた。
「わぁ……」
こみ上げてくるこの不思議な感覚。魅了された、という言葉がまさにふさわしいのかもしれない。
羽根があって、輪っかがある。そして白衣を着て微笑んでいる。ほとんど私の想像した通りの姿だったが、一つ違う事と言えば、想像していた以上に、その天使は若かった事だ。
年の頃は、人間の女の子で言えば中学生か高校生の低学年くらいだろうか。
西洋風の女の子の顔をした、とても可愛らしい天使だった。羽根と輪っかを取って普通のお洋服でも着せてしまえば、そのまま人混みの中に混じっても可笑しくない。
だが、その天使の浮かべている笑みは、どこか表面的だった。
「アルカイックスマイルか……」
お兄ちゃんが、天使を見つめながらぽつりとつぶやいた。
「アルカイックスマイル?」
「初期ギリシア彫刻に見られる唇の両端がやや上につり上がった、微笑の事だ。うわべっ面だけの笑顔という意味もある」
ぼうっとお兄ちゃんの言葉を聞き流しながら天使を眺めていた私は、突然後ろから何者かの視線を感じた。
振り向いた先に立っていたのは、無精髭を生やした土気色の顔に険しい表情を浮かべている、がっしりとした体格の男だった。私のお父さんと同じ位の年齢のようだが、所々汚れの目立つズボンにしわの寄ったYシャツ、そしてだらしなく伸びたあご髭が、それ以上に老けた印象を与えている。
一体何に憤慨しているのか、彼の厳しい眼差しは私たちにではなく、さらに奥向こうに置かれている今やってきたばかりの天使像に向けられていた。
その男は私とユーイチお兄ちゃんの視線にようやく気が付くと、それまで頑なに力を込めて怒りに震わせていた拳を弛緩させ、応接間に続く廊下に向かって歩き去ってゆく。
「あの恐そうなおじさん、誰?」
「聞いて驚くかもしれないが……この天使の制作者だよ」
昨日お父さんと一緒にいた待合室の向こうで、壁を通り越して聞こえてくるほどの大声を叫き散らしたあの先客と同一人物だと悟り、私はさして驚かなかった。むしろあんな恐そうな人がよくこんな目を奪うほどに美しい天使を作ることが出来るのか、その疑問の方が私の思考の中で勝っていた。
「まあ、彼の気持ちはわからんでもないがね。未完成の、まだ作品とも呼べぬような代物が事もあろうに……こんな大勢の目に付く場所にさらされているんだからな」
お兄ちゃんは皮肉混じりにフンっとせせら笑うと、私の頭を軽くたたいて彼の部屋へと促した。