P.E.T.S[AS]

第5話「温泉旅行」

「ご主人様!」

聞き覚えのある声が悪夢を中断させてくれて、私は目を覚ました。ぼんやりとかすむ視界に映る黒髪と銀髪のハイブリッド、本来の端正な顔つきは動揺と心配の表情に変化している。
いつの間にか、私はティコに抱きかかえられていた。

私「ティ……コ……?」

急に不可解な夢から解放されて、精神は未だ混乱している。それでもティコが助けに来てくれたという安堵感で、私は再び瞼を閉じてしまいそうになった。

ティコ「大丈夫ですか? ご主人様……」

悲壮な顔をして呼びかけてくる。よほど焦っていたのか、ずっと走って探してくれたのか、ティコの呼吸は激しく乱れていた。私の頭を支えているティコの右手が、とても熱っぽい。

私「だい……じょうぶ……だよ……」

どういう訳か声がかすれて、あまり気休めにはやらなかったかもしれない。だがティコは大きく息をついて、険しい表情をくずした。

ティコ「良かった……。こんな所で倒れていたものだから、通り魔にでも遭ったのかと思いました……。怪我はないんですか?」

体の所々を動かしてみて、痛みが無いことを確認した。あまり皮膚感覚というものが感じられないが、意識を取り戻して間もないのならば無理もない。時折ふいてくる涼しげな風が頬にぶつかって、目を覚ましてくれる。辺りを見渡すとそこは相変わらずの薄気味悪い雑木林だが、ティコの存在のおかげで先程までの恐怖感は完全に無くなっていた。

私「どこも……大丈夫だから……。嬉しかった……助けに来てくれて……」
ティコ「ご主人様をお守りする。守護天使として当然の務めですよ。さあ、立てますか? ご主人様」

ティコに支えられながらゆっくりと立ち上がった。体にかかる重力は、現実世界に居るという事を確実に実感させてくれた。あのときの夢は、瓦礫に埋まっているというのに圧迫感どころかむしろ体が浮いている様な気さえしていたのだ。

私「ロックはどこにいるの?」
ティコ「恐らく別の場所をまだ探しています。なに、ある程度時間が経ったら旅館に戻るということにしてありますから、大丈夫ですよ。それより……」
私「きゃあ!」

ティコが言葉を続けようとした途端、突然大きな音が鳴り出して、私は彼に抱きついてしまった。両腕を、思い切りティコの背中まで回して……。

ティコ「ごっ……」
 
身長差のせいで、私の顔はティコの胸にうずくまる形になった。きっと、私とティコの心拍数は急上昇していただろう。私の耳元からは、彼の心臓の鼓動がはっきりと聞こえてきた。

どくん……どくん……。
ティコの手が、私の背中にも回ってくる。
シャム猫だった頃のティコのぬくもりが急に頭に浮かんできた。しかし今やそれと全く違った感触と暖かさを感じて、頭に血が急激に上ってくる。今まで全く考えもしなかった行動を取ってしまって後悔したが、それと同時に、未だ経験しなかった興奮を覚えてしまう事が、私の理性を余計に錯乱させた。様々な動揺と感情が荒れ狂う頭の中でも彼の心音だけは止むことなく鳴り響き、私の意識の中でティコという存在がどんどん膨れあがって爆発しそうになる。
だが、それまでひっきりなしに脳裏に何重にも浮かぶティコの顔が、突然かすかに厳しいものに取って代わった。それは彼に似ていて、全く別の誰かを思わせた。

そのまま一種のトランス状態が続き、どれくらい時間が経っただろうか。
私の背中から手を離して、ティコがゆっくりとつぶやいた。

ティコ「携帯電話です……」
私「……え?」
ティコ「携帯電話が鳴ってます」

大きな音の正体が携帯電話のメール着信音だった事を理性が悟った途端、感情の高ぶりが一気に冷めていった。そしてティコと目を合わせた途端、互いがほぼ同時に、寄せ合っていた体を離した。ポケットから携帯を取り出す。

私「えっと……え? 何……これ……」

暗闇の中でバックライトに映し出されたメール画面には、不可解な英単語が並んでいた。
ティコがのぞき込んで文字を読み上げる。

ティコ「『Project ...Q』?」
私「なんだろうね。それ……」

そのメールに在った文章はそれだけで、怪しげな添付ファイルの類もない。
差出人は不明。メールアドレスの欄が空白だった。普通の手続きでは、決してこんな事にはならないはずだが……。真っ暗闇の中で、バックライトに照らされたティコの顔が眉をひそめた。

ティコ「変ですね。この携帯だとここら一帯は圏外で、メールが受信されるなんて事はありえないはず」

液晶画面の本来アンテナが表示される場所に、確かに赤い文字で圏外という文字が映っている。

しばらくの間、私とティコは届いたばかりの不審メールを見つめ続けていた。
『Project ...Q』、一体何の意味だろう。結局二人とも分からないという結論に達した時、ふと間に辺りから綺麗な虫の音が聞こえてきた。「もう帰りなさい」。心地よい虫たちの合奏が、そう言ってくれているような気がした。

私「帰ろうか」
ティコ「そうですね。先生に車で迎えに来てもらいましょう」

別の携帯を取り出してティコは電話を掛けたが、私は相手に向かって話すティコの手を掴んで我がままを言ってしまった。

私「いいよ。歩けるから。……二人でおしゃべりしながら帰ろうよ」

ティコは笑いながら少しため息をついて、電話を切った。
「歩いて帰ります」とだけ言って……。


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