ロックがまた、ぶちぶち文句を言い始めた。
ロック「だからさあ、なんでお前あのとき俺のトラウマの事言ったんだよ!」
「別にいいでしょう。そうでなくとも、ご主人様はとっくの昔に気づいてます」
とっくの昔といっても、つい今朝の事だが……。
今私とロックは、夕食を終えて手洗いに行った帰りである。旅館の中庭に面した廊下を歩きながら、私たちはもっぱらご主人様の事について話していた。
ロック「火が恐いなんてよお! 美月のやつ、絶対俺の事腰抜けだと思ってるぜえええええっ!!」
さっきからずっとこんな調子だ。それまで恐い物知らずだと思われてきたロックにとって、今回の事は相当な屈辱だったらしい。頭を抱えながらわめきまくるロックの隣で、私はトラウマの事を知った時のご主人様の表情を思い出していた。小さな驚きの次に彼女が見せた、子供を見つめるような優しい微笑み……。
「気にしないでいい……ご主人様がそう言っていたでしょう」
ロック「ぅ……ああ……」
多少の慰めになったのか、ロックは落ち着きを取り戻したが、気落ちしている様子は変わらない。182センチの大柄な男が首をうなだれてとぼとぼと歩くのを見て、『大きな犬が落ち込んでいるみたいだ』という連想ができれば、おそらくその人は彼の主人となる適格者だろう。もっとも、そういう風に連想できるのは今のところ私とご主人様だけなのだが。
ロック「なあ……」
「なんです?」
問いかけの後にしばらくの沈黙が続いた。下を向いているロックは真剣な表情をして、視界に対して後ろへと移動する床をじっと睨んでいた。
「美月……キスなんてした事あるんだな」
ロックの口から突然出てきた言葉に、何故か私は立ちくらみを覚えた。露天風呂でのご主人様たちの会話が垣根を越えて、同じく外に出ていた私たちの耳元に届いてきたあの時の事が思い出される。
「まあ……ああ見えてもご主人様は大人ですから。過去に男性と付き合う事があったとしたって、不思議じゃありませんよ」
ロック「んだな……」
そうだ、別に……なんの不思議もない。
大体さっきから何だっていうんだ。いつもらしくないロックの横顔を見ながら、私はこいつの真意を計りかねていた。じっと床を睨んで俯いているあいつの頭には、どんな思考が渦巻いているのだろう。
もっとも、真意が計りかねないのは私も同じだった。風呂で聞いたご主人様の言葉が何故か頭から離れない。頭に何かつかえたような気がして、どうも嫌な感じがする。ご主人様と守護天使という立場からすれば、全く関係の無い話なのに……。
「そういえばかすみちゃん。お前の事が好きだ、みたいなこと言ってたじゃねーか」
混乱する私に、さらに追い打ちをかけるような事を言う。あの子の気持ちが私に向いていた事など、それまで気づきもしなかった。そして意外と鈍感だった自分に対しての驚きもある。
「ええ」
ロック「ええって……まあいいや。告白でもされたら、どちらにしろしっかり答えてやれや」
ロックは私の肩を叩いて言った。
彼女の気持ちは嬉しく感じたが、少なくとも今の私には、どうすることも出来ないような気がした。人間の女性が自分に好意を寄せる事に、かすかに違和感を感じていたからだ。今は人間として暮らしているというのに、依然として残り続ける守護天使と人間との意識のギャップ。主人を護る者として、それは必要なのかもしれない。
だがそんな散漫とした思考の中で、私の動揺はかすみちゃんに対してよりも、なぜかご主人様のあの話の方に傾いていた。自分を慕ってくれる人の事より、他の人の事を気にしてしまう自分が不思議でしょうがなく、そしてその事に苛立っていた。それもやはり、相手がご主人様という特別な存在だからだろうか。それ以外の理由があるとすれば、私は一体何を考えているというんだ?
お互い黙って廊下を歩きながら、なにか寒気と胸騒ぎを感じていた。
そういえばご主人様は一人で外に出ていったが、もうそろそろ帰ってきているだろうか。