P.E.T.S[AS]

第5話「温泉旅行」

気温もすっかり下がり、息を吐くと白い煙が出るという程ではないが、夏の夜の蒸し暑さは完全に消え去っている。
食事を早々に切り上げた私は、みんなに断ってある場所へと向かっていた。そう、ユーイチお兄ちゃんが『かつて』居たあの羽崎家である。確か、ユーイチお兄ちゃんは随分と前にアメリカかイギリスに移ってしまったはず。再び会うことはかなわないが、私はどうしてもまたあそこへ行ってみたかった。
反面、自分のかつての実家に寄ろうという気は、全く起きなかった。
それでいい。考えてみれば当然の事だ。『一人前になる』まで、戻らないと決心したのだから。

涼しげな夜空に綺麗な星々がちらちらと見える……。道の所々には街灯があるが、それでも私たちが普段住んでいる街に比べて格段に光の量が少ない。田舎と言ってしまえばそれまでだが、そのおかげで星ははっきりと見えるし、なにより6年前からほとんど変わっていない町並みに、私は軽い安堵感を抱いていた。
閑静な住宅街を横切って、途中の十字路を右折してしばらくゆくと、やがて少し急な坂道にぶつかる。それは昔、私が父と一緒に羽崎家へ向かう時に上ったあの坂だった。
妙な感慨に浸りながら坂を上り終えると、遠い前方に見覚えのある長い塀が見えてくる。

私「ここだ……」

しばらく進んで門の辺りまで来ると、私は塀から少し離れて向こうの様子をうかがった。

屋敷は、今もなお健在だった。
所々、窓から明かりが漏れている。庭園も向こうにあるのだろう。大きな針葉樹が一定間隔で軒を連ね、窓からの薄い光を受けて周囲の闇よりかすかに白く見える。
そして薄暗い闇の中で塀の向こうに佇む巨大な建物は、何かの意志を持った生き物のように思えた。
こんな大きな屋敷で、今でも家政婦や使用人といった人達が働いているのだろうか。
しばらく屋敷をそのままぼうっと眺めたまま、私は過去にここでユーイチお兄ちゃんとティコとで一緒に遊んでいた時の事を思いだす。

私「懐かしいな……」

入ってみたい。そう思った。きっとあの頃と変わらぬまま、この屋敷は私を迎え入れてくれるに違いない。もっとも、今となっては中にいる人たちが歓迎してくれるかどうか分からないが。
そういえばあの天使像は、まだ置いてあるのだろうか……。

 

 

 

その後もしばらく屋敷を眺め続け、いい加減気の済んだ私はようやく帰路につこうとしていた。
だが一つのとっかかりが、私の脳内にずっと居座り続けている。
……あの頃の出来事が思い出せない。
今まで夢の中で再現されていた所までなら思い出せる。だがそこから先がまったく出てこないのだ。
よくよく考えてみれば5歳の頃の話だし、忘れていてもしょうがないが、ではなぜ夢の中では思い出せて、今は思い出せない?
そもそも、あの変な夢はなに?
過去の追憶が始まるまでの、あの変な世界は?
決して答えの出ない疑問と、頭の中でどれくらい対決していただろうか。気が付くと、私は見たこともないような場所に来ていた。

私「何? ここ……」

そこは、薄暗い林の前だった。全く舗装されていない荒れた道路を横切った所に、その道路に沿ってフェンスらしき網が真横へずっと伸びている。誰かの私有地だろうか。
フェンスの上部にはトゲのある錆びた鉄線が張り巡らされ、侵入者を防ごうとする努力が垣間見える。
だがそれをあざ笑うかのようにフェンスに空けられた穴が幾つか……。握り拳2つ分くらいの小さなものもあれば、人が簡単に通り抜けできるような大きさのものまである。
フェンスを通り越した先にある雑木林は、とても管理が為されているとは言えない。木々はお互い十分な間隔を開けずにぞろぞろと立ち並び、上の方ではぼうぼうに伸びた枝や葉っぱが、夜の空を完全に隠していた。辺りには蛾が飛び交い、木々の隙間を埋め尽くす闇が、侵入者を待ち受けているような気がした。
この不気味さといい、あのフェンスの大穴といい、もしかしてここはいわゆる肝試しスポットという所なのだろうか。

はやくずらかった方がいい。理性が下す結論に素直に従い、恐怖感に押しつぶされそうになりながらも反対側へ振り返って一目散に逃げ帰ろうとした、その時……。


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