「準備はいいですか」
お兄ちゃんは道路の真ん中で、ロックの手綱をしっかりと握りながら私の方を見て答えた。
「いいぜ、やってくれ」
私はお兄ちゃんのタオルを右手に持って気をつけをし、幼稚園の先生達のやり方通りに合図をかける。
「いちについて。よ〜い……」
……
しばしの静寂が、あたりを支配する。
……
「どん!」
「おらぁああああああ!」
お兄ちゃんは私の合図と同時に持っていた手綱を放し、コンクリートの地面を大きく蹴って全速力で駆けていく。ロックも少し遅れながらも彼の後を猛スピードで追っていった。
この団地を先に一周してきた方の勝ちである。
向こうへ駆けていく二人の姿はどんどん小さくなり、やがて途中の角を右に曲がって、見えなくなった。
今の所、お兄ちゃんが先行していた。
一人残され、することが無くなった私はそれまで何をしていようか頭を悩ませた。
庭でしばらく遊んでいるには、団地一周はあまりに短すぎる。
ふと、道路の塀のそばにおいてある、お兄ちゃんのバックが目に止まった。
ちょっとした出来心である。よいしょっとバッグを抱えて、いろいろと眺め回してみた。
ひもの根元に小さな名札がついていた。
「角栄高等学校 3年B組 片山健介」
ばたばた、という聞き慣れた足音が聞こえてきた。二人が帰ってきたのだ。
「あれ?」
振り向くと、まず先に目に飛び込んできたのはロックだった。
しばらく遅れて、ケンスケお兄ちゃんの姿が見えた。顔を真っ赤にしながら後を追いかけている。
「ワン!ワン!」
「ぐおおおおおおお!!」
私は慌てて規定のゴール地点に戻って、タオルを構えた。
ロックがものすごい勢いで、私の前を通り過ぎる。
「ゴール!」
私はすぐさまフリッカー代わりのタオルを思いっきり振り上げた。
「くぉおおお!」
続いてお兄ちゃんが転げ込むようにゴールラインを横切ってゆく。
そのまま倒れ込むお兄ちゃん。
「ぜえっ……ぜえっ……くぅ!」
「お兄ちゃん。だいじょうぶ?」
駆け寄ってお兄ちゃんの背中をさすってあげた。ものすごく熱い。髪の毛が汗の水滴を帯びていた。
「くっそおおおおおお!マジかよおおお。県ベストエイトの俺がぁ……」
お兄ちゃんは両手両膝をコンクリートにつけてロックを横目に見ながら、悔しそうに漏らした。
一方のロックは、舌を出してハッ……ハッ……っと速い呼吸を繰り返しながらも、しっかりとした足取りで私の方へ駆け寄ってくる。
「すごいねロック!お兄ちゃんに勝ったよ!」
ロックの背中を撫でると、彼の毛も汗で熱く湿っている。本当に二人とも全速力で走ってきたのだ。
「くっそお!甘く見てたぜ。こいついつまで走っても全然スピードが落ちねえんだからよ」
「今まで知らなかったの?」
「ああ、いつも一緒に走ってっけど……本気で勝負したのは初めてだ」
「へえ〜」
お兄ちゃんは息をつくと、ようやく立ち上がって金髪の髪をかき上げて言った。
「まあ、コイツを飼いだしてからまだ3週間だし。」
「え!そうなの?」
にわかには信じられなかった。いつもいつもうちの塀の前を仲良く走るその姿から、きっと二人はとても幼い頃からのパートナーなんだ、と勝手に空想していた。
「ああ。だからまだ、なかなか言うこと聞いてくれなくてよ」
私の側をついて離れないロックを横目に、お兄ちゃんはつぶやいた。
「お嬢ちゃんの方が気に入られてるみてーだし」
「うん、とっても可愛い」
「もともとそいつ、俺の親戚のじいさんが飼ってた犬だったんだけど、そのじいさんが亡くなっちまってさ。んで、んなおっきな犬始末に困るから俺の所で飼ってくれって頼まれたんだ。」
「そうなんだ〜」
ロックは自分の事を言われているの知ってか知らずか、私に頭を撫でられながら大人しくしている。
「だからまあ、コイツと散歩しだしたのもつい最近……・」
突然、お兄ちゃんは話すのを止めた。
「あ、どうも……」
お兄ちゃんは私の後方を凝視しながらそう小さくつぶやくと、ロックの手綱をつかんで、私に言った。
「嬢ちゃん。悪いけど、今日はここまでな」
「え?」
何がなんだか分からなかった。
「それじゃ、また来っから」
お兄ちゃんは私に小声でそうつぶやくと、バックを拾い上げ、ロックを連れて走り去ってしまった。
私はただ呆然と、二人の後ろ姿を無言で見送るしかなかった。
どうしたっていうんだろう。
しかたなく家の中へ入ろうと玄関の方を振り向くと……
お父さんが立っていた。
「ぁ……」
声が出ない。いけない事を見られてしまったような、とても気まずい思い……
「みだりに知らない奴と口を聞くな」
お父さんはいつも通りの無骨な低い声で、私を見据えて言った。
原因は明らかだった。
「あの……」
『ケンスケお兄ちゃんは悪い人じゃない』
そう言いたかった。でも、その勇気が無かった。
「早く中へ入りなさい」
言われるままに、私は玄関に入ってゆくお父さんの後をとぼとぼと付いていった。