お父さんの取り引き先はうちからそう離れてはいなかった。その気になれば、私だって歩いて行ってしまえるくらいの距離だ。
夏も終わり、少し肌寒くなってきた秋の空の下。
灰色のスーツを着たお父さんは途中の坂道を歩きながら私に忠告した。
「美月、いつもの様にいい子にしているんだぞ」
常にいい子でいなさい……。そう、常に私はいい子であることを義務付けられていた。挨拶、姿勢、字の読み方、果ては時計や温度計の見方まで父に教え込まれた。来年からはピアノを習わされる。
今まで反抗したことは無い。そんなことをしたらどうなるだろう。たった5歳の私には想像することさえ途方も無い恐怖を感じた。私のような小さな存在は、きっとお父さんにいともたやすく引き裂かれてしまうに違いない。
いつの間にか、私の視界の左側には長い塀がずっと続いていた。うちより何倍も長い塀の向こうには、これまた我が家が霞んで見えてしまうくらいの大きな屋敷が構えていた。お父さんの取引先というのはどうやらここらしい。
お父さんは正門の呼び鈴を押し、相手が出るのを待った。
「……はい、どちら様でしょう」
しばらくすると、備え付けられたマイクロフォンから若い女の人の応対が聞こえた。お父さんは自分の名前と用件を伝える。
「朝村様ですね。お待ちしておりました。中へお入り下さい」
電動式の洋風の門が開き、開け放たれた広大な空間が目の前に現れる。門から玄関までの距離がこんなに長いなんて、私はとても信じられなかった。玄関に辿り着くまで、庭園の至る所にある立派な木々を見ると、私は今までの小さな常識を打ち砕かれ、まるで自分が別世界にいるような感じがした。
屋敷に入ると、お父さんと私は応接間に移された。
そこには一人、ソファーに初老の男性が腰掛けていた。その上品な服装やいでたちから、この屋敷の主であることは私にも容易に理解できた。
「朝村さん。よくいらっしゃいました。」
人の良さそうなそのおじさんはお父さんと私を笑顔で歓迎し、ソファーへ座るよう促した。
いい子にしていなさい。お父さんの言葉を思い出し、背筋をピンと伸ばしてソファーに座る。
……
子供にとって大人の長話というのは退屈以外の何物でも無い。初老のおじさんは最初のうちは私に興味を示して何度か話し掛けてきたものの(もちろん私はいい子に答えた)、その後はお父さんとえんえんと仕事の話を続けている。これから私は何時間もこのソファーの上で「いい子」にしていなければならない。そう考えるとまるで自分が見えない檻の中に閉じ込められているような気がした。
「退屈ですかな?お嬢さん」
どれくらい時間が経ったろうか。テーブル掛けの模様を無心に目でなぞっていると、突然おじさんが声をかけてきた。びっくりして危うく持っていたジュースをこぼしそうになる。
大人ってなんて自分勝手なんだろう。さんざん放っておいたり、急に話し掛けたり。これならお屋敷を見学していた方がずっとましだ。何でお父さんに連れてきて欲しいなんて言ったんだろう。
「おじさん達のお話はもう少し続くから、どこかで遊んでいるといいでしょう」
私は少しこの人の評価を改めた。
「祐一、ちょっと来なさい」
おじさんは応接間のドアに向かって呼びかけた。すると、その人はすぐ近くにいたのだろうか。ほとんど間をおかずに一人の男の人が入ってきた。
「お呼びですか。父さん」
その男の人はおじさんに向かって敬語で返事をした。
不思議な感じ……。それがこの人を見た第一印象だった。まるでおとぎ話で出てくる魔法の世界の王子様のような気がした。だって、下の方の髪が黒くて、上の方は銀色の髪の毛をしているなんて、現実の世界では普通ないから……。でもその姿はだらしのないものではなく、不思議と気品と知性を幼い私にも感じさせた。
「少しこのお嬢さんの相手をしてあげてくれ」
「分かりました」
その男の人は私を見ると優しい表情を見せて、「おいで」と手招きした。