「……」
お父さんは部屋に入ってくると、無言で私とお母さんを交互に見つめる。それはいつものように私たちに義務づけられた言葉を待っていることを意味していた。
「お父さん、おはようございます」
模範生そのままと言う感じで、私は幼稚園の先生達が聞けば文句なしで満点をつけてくれそうなほどの完璧な挨拶をした。
「おはようございます。あなた」
お母さんがそれに続いた。
「おはよう」
お父さんはうなずきながら挨拶を返した。彼のうなずきは「とりあえず合格」を意味する。
お父さんは私たちの向かいのいつもの席に座り、お母さんが入れ直したコーヒーをすすりながら、私に向かって言った。
「美月、またこんな時間から庭で遊んでいたのか」
「うん。……あ、はい!」
慌てて言葉遣いを直す。「うん」など言語道断。返事をするときは「はい」。それ以外は許されない。
「ちゃんと手は洗ったか?うがいは」
「ちゃんとしました」
「それでいい」
お父さんは再びうなずくと、1枚目のパンにバターを塗り、豪快にかじりついた。
しばらくの沈黙が続く。聞こえるのはお母さんが静かにスープをすする音と、お父さんがパンを食べる音、そして私が静かにハムエッグをつつく音。
私の家庭で暖かさを感じられるのは、母と一緒の時。お父さんが来ると、その温かさを感じる余裕は決して与えられなかった。
3枚目のパンを平らげたお父さんはその無骨な声でお母さんに言った。
「もうすぐ取引先に出かけてくる」
コーヒーをすすりながら、お父さんは目をぱちくりさせながら腕時計に目をみやっている。
「わかりました。気をつけていってらっしゃい」
お母さんが暖かいまなざしをお父さんに向けて言った。お母さんは誰に対しても底なしの優しさと寛大さを持っていた。それは厳格な父に対しても少しも変わることはない。それどころか今思い出せば、お母さんはいつまでも父のことを心から愛していたのだと思う。
「美月も連れて行く」
あまりに突然のことだったので、最初私は自分のことを言われていることに気づかなかった。それはお母さんにとっても同様だったらしい。もちろん取引先に自分の娘を連れて行くなんて事は普通はない。
「お仕事の邪魔になりませんか」
「取引先がな、以前私がひとり娘がいると言ったら、ぜひ連れてきてくれとおっしゃってな」
コーヒーを飲み干して、お父さんは立ち上がった。
「ごちそう様。美月もはやく食べてしまいなさい。それから身だしなみをちゃんと整えておくんだ」