たおやかな鋼

このショートストーリーでは、登場人物・組織設定など、小説「死の先に在るモノ」を未読の方には分からない要素が存在します。
よって、「死の先に在るモノ」を未読の方は、面白さが半減する可能性があります。
ぜひ、「死の先に在るモノ」(少なくとも3.5話まで)を先にご覧になった後で、お楽しみください。
また、このショートストーリーの主人公である「梟のメティファ」のプロフィールページを事前にチェックされることをお勧めします。

「お疲れ様──終了だよ。これで、一週間ほど待ってもらえば、完成させることができると思う……」

 機械の操作を終え、白衣を着た男性が声をかけると、診察用の寝台に横になっていた女性は、閉じていた目をゆっくり見開いた。そして、さほど大きくはないのに、よく通る声で言った。

「ありがとうございます。いろいろご面倒をおかけして、申し訳ありません」
「いや、僕にとっても、研究の一環になることでもあるし、それは別にいいんだが……しかし、あなたの方は本当にいいんだろうか?」

 女性の額や頭につけてあったさまざまな計測器を取り外しながらの彼の言葉に、その彼女は若さに似合わぬ冷静で落ち着き払った眼を向ける。いかにも聡明そうな大きな明るい灰色の瞳だった。

「何がでしょうか? ドクター」

 その瞳で見つめられ、ドクターと呼ばれた白衣の男性──イリノアは内心ひどく新鮮な感覚を覚えた。いや、普通の男性であったなら、それだけでは済まず、もっと何か落ち着かない気分にさせられていたに違いない。普段トレードマーク、と言うより、もはやほとんど彼女のシンボルのように見なされている眼鏡の陰に隠され、めったに人前にはさらされたことのない眼と素顔とは、この上なく理知的である一方、驚くほどに女性らしい優しい美しさに満ちてもいたのだったから。
 だが、それはそれとして、彼はずっと心にかかっていたことをこの機会に問い質すため、会話を続けた。

「もちろん、今作ろうとしている封冠を装着することについてだよ」
「オフィサーの私が封冠をつけていたとしても、別にそう変ということもないのではありませんか?」
「そういうことを言っているわけじゃない。あなたも分かっているだろう? ……確認しておきたいんだが、その封冠が完成したとして、あなたはそれを常に装着するわけなんだね?」

「もちろんですわ。そうでなければ、意味がありませんから」
 ほんのわずかな逡巡すらない、素っ気ないほどの即答にイリノアは深くため息をつき、首を横に振った。

「正直、僕には理解できないな──実際僕としても、いくらロイ司令の命令でも、普通なら、こんなことは拒否しているところだ。しかし、当のあなたの方が承知してのことだというし……いや、あなたが司令に忠実だというのは、よく分かっているよ──だからと言っても、何もこんな命令にまで従わずとも……」
「たぶん、少し誤解しておられますわ、ドクター」

 手で体を支え、寝台の上に身を起こしながら、女性はそう言った。

「誤解?」
「ええ」

 問い返すイリノアの方へ起こした半身をひねって、うなずく。つけていたさまざまな計測器を外したために、普段固く縛って頭の上に巻きつけている灰褐色の髪がいささか乱れ、実は綿のように軽く柔らかい髪質で、またかなりの癖っ毛であることが現れてしまっていた。そして、まだ寝台の上に乗せたままのすらりと伸びた形のいい脚は、上半身を起こしたことでスーツのスカートの裾が少しめくれて、わずかながらまたさらに露わになった。

 その彼女のいつもになくややしどけない姿は、元来種族の特性として他者を魅了する強い力を持ち、それだけに他者のそういう魅力からの影響は受けにくい夢魔であり、なおかつすでに男性化している……すなわち、1人の女性にとうにその愛と忠誠を捧げている、彼イリノアにとってみてさえ、はっとするほど充分に魅力的なものがあった。そして、この時同時にイリノアは、普段の彼女の服装が単にきちんとしていると言うより、こうした自分の魅力を隠すため、あえて地味な姿をしているのだということにも思い至った。

 ──だが、続けられた女性の言葉がそうしたものは全て吹き飛ばしてしまった。

「この件は司令のご命令を受けてからのことではなく、私から言い出したことです。もともと私の発案なのですから」

 寝台の上から脚を下ろし、スカートの裾を直して膝をつけてきちんと座ると、額にかかってくる前髪をかき上げつつ、彼女は言ったのだった。

「あなたから、言い出した? ──あなたの発案?!」

 思わず、イリノアは相手の言葉をそのまま繰り返して聞き返していた。優秀な科学者・技術者で、明晰な頭脳の持ち主の彼らしからぬことであったが、それだけ、この時彼の受けた衝撃は大きかったのだった。しかし、相手は彼のそうした驚きをよそに相変わらず冷静な口調で、

「はい。むろん、ご説明申し上げましたら、すぐご許可をいただけて、ドクターにご依頼下さったのですから、このことの有用性を司令も充分お認め下ったことと思いますが、そもそもこのことを初めに考えたのは、私です」
「なぜ、そんな……?」
「フェンリルの内部情報の漏洩を防ぐために必要なことだからです。そして、それにはこの方法が最も有効だからですわ。ドクターも、そのことはお認め下さいますでしょう?」
「確かに……あなたがフェンリルの中でも、司令の次に──いや、あなたの、その一度見聞きしたものは決して忘れないという特殊能力から、種類によっては、ロイ司令以上に細かいフェンリルの内部情報を持っている人物であることは承知している。だから、あなたの知っている情報が外部に漏れたりすることがどんなに危険なことであるかは、僕にも想像はつく。従って、そのための対策が必要というのも、理解はできるが……」

 イリノアはここで少し言葉を切った。相手はただ黙って、彼の次の言葉を待っている。

「しかし……しかし何も、こんな方法でなくとも……! あまりにも、非人道的じゃないか、あなたから情報が漏れるような危機に陥った時、あなたの記憶いっさいを消し去ってしまおうなんて……!!」

 その強い口調とまっすぐな視線に、だが、彼女はわずかなたじろぎも見せはしなかった。

「いいえ、そんなことはありません、ドクター。それどころか、逆にむしろずっと人道的と言えると思います。なぜなら、その目的のためだけなら、私の命を絶ってしまう仕掛けの方が確実で、しかも簡単なところを、そうはしないのですから」
「あなたは……。──仮にも、自分の命を、そんな軽くに言ってはいけない」
「申し訳ありません。でも、ですから、そうしないためのこのシステムなのですわ。私としても、もちろん無駄に命を捨てたくはありませんし」

 自分で自分の命を気にも留めないかのような発言に、医師として、かすかないら立ちと嫌悪感を顕わにせずにはいられなかったイリノアに対して、女性はそう答えた。だが、鋭敏な夢魔はそこに、ある種の欺瞞を嗅ぎ取っていた。そして、そのことは続く相手の発言によって、半ば裏づけられる。

「それに、それでは、ドクターのご協力をいただけないことは分かっておりましたから」
「……」

 何と言うべきか分からなくなったイリノアだったが、しばらくしてようやく、

「だが……よくも、そんなことを思いついたものだ。──自分自身のことについて、よくぞそこまで……」
「別に大したことではありません。──情報というものは、一つのところに集まっていないと、充分な活用はできないものです。しかし、一ヶ所に集中して存在するということは、逆に言えば、何者かにまとまって奪われる危険性を常に伴うことでもあります。そのために、フェンリルのデータベースに使用しているメインコンピュータには、いくつもの厳重なセキュリティのための手段が講じられています。ですが、生きた存在である私には、そうしたことはできません。ですから、情報漏洩を防ぐためには、何かそれに代わる他の方法が必要です。それだけのことですわ」
「それだけのこと、か……。やはり、僕には分からない……どうして、あなたは平気で、そこまで自分を犠牲にできるんだ?」
「犠牲、などではありませんわ。私を、私の力を司令に充分使いこなしていただくためのことなのですから。私から、重要な情報が外部に漏れてしまうような危険があったままでは、司令も心おきなく私をお使いにはなれないでしょう。それでは、私としても不本意です」
「……しかし、一歩譲って、仮に、そういうことが命を絶つことよりは、まだいくらかはましだと認めるにしても──封冠のその機能を作動させられるのがあなた自身だけでなく、ロイ司令にもそれができて、それも、どこにいたとしても可能、というのは……。それで、本当にいいのか? 言わば、あなたは自身の生殺与奪の権を、司令に完全に委ねることになるんだよ」
「それじたいは取り立てて言うほどのことではありません。そして、それもまた、どうしても必要なことなのです。むしろ、そうでなければ、このシステムは片手落ちと言うべきです。仮に、私が呪詛悪魔のような敵勢力に囚われたとして、その時、私が自分の意思でその機能を使えるように、意識を保っているとは限らないのですから」
「むう……」

 イリノアは思わず唸った。理屈としては確かに正しい言葉は、なおも整然と流れていく。

「私はいよいよ他にどうしようもない時には、自決するぐらいの覚悟もあるつもりですが、そういう場合、それぐらいでは全く不充分です。どんな状況にあっても、自分の意志を貫けるとうぬぼれられるほど、私は自信家ではありません。私のつもりがどうあれ、口を割らせる手段、あるいは、そうして私自身にしゃべらせるまでもなく、私から情報を引き出すことの可能な方法や能力など、いくらでもあります。優れたテレパス、ヒュプノスらにかかれば、私の抵抗の意志など、完全に無意味です。私が意思を奪われ、もしくは私の意思と関係なく、私の頭から情報を引き出されることを防ぐためには、司令の判断で私の記憶を消去していただくしかありません」

(この女性は、自分自身をすら、信じてはいないのか……。いや、と言うより、どこまでも冷静に客観的な思索を積み重ねた結果、絶対的に当てになるものなど、自分をも含めて何もないという結論を導き出したと言うべきなのか……だが、そんな彼女が、ロイ司令にだけはそんなふうに、自分の運命も何もかもを委ねてしまうというのは……? ──いかに忠誠の対象とはいえ、ここまで論理的な頭脳の持ち主が、そこはいささか腑に落ちないな……司令を盲信してしまっているような輩とは違って、彼女の理性は司令の無謬性を無制限に信じたりはしていないはずだ──むしろ、客観的に広い視野で見て、司令の誤りや不足を見つけ、それらを補おうなどとするのが彼女のような知性には、よりふさわしいことじゃないだろうか?)

 イリノアのそうした思考は、まさにその対象たる女性の新たに発した言葉によって中断された。

「そして、そのことは、同時に司令にとって、保険にもなり得ます」

 その中の一つの言葉が特に彼の心に引っかかったからだった。

「保険?」
「分かっていただくために、ドクターにだけは申し上げます──ご自分以外の人間を信用なさらないという司令の態度は、徹底していてお見事なものですが、そのために私にもお話いただけないこともあります。私は決して司令の不利益になるような真似はしないつもりではおりますが、それは私が勝手に思っていることで、司令としては秘密厳守のためには、そういう対応をされることも分かります。しかし、それでは私の能力を充分活用されることにはなりません。私の力を有効に活かしていただくためには、そんなことは気にせず、ただ道具を使うように扱っていただいた方がいいのです。しかし、そうは言いましても、司令の用心深いご性格からして、そうはなさらないでしょう。──ですけれど、私に教えてしまったことを、後からでもいつでもそれを無効にすることができるという、こういう保証があれば、司令も今よりずっとご懸念なく私をお使いいただけるでしょうから」
「……」

 イリノアは再び言葉を失った。
 絶対的な忠誠──いや、これはもはや“忠誠”という、言葉通りのその位置にただ留まるものではなく、それに徹するようでいて、それを超えることのようだった。……自分の人格、いや、存在そのものをすら自ら抛つことで、本質的にはおそらく誰であっても他人を信用などしないあの男に、人間的な信頼関係などはいっさい求めず、しかし、そのうえで誰より近くにあろうというのか……この女性は……!

「あなたは、たいした女性だな……」

 イリノアは眼の前の女性をあらためて見直した。知的だが、華奢でたおやかで、そんな凄まじい強靱さなど、どこをどう探しても見つからないかのようなこの女性の、鋼鉄のようなその内面を、今初めてはっきりと知らされた気がした。

「──僕はかつて、誰より美しく、そしてまた、強くもあった女性を知っている……。だが、あなたは彼女とはまた別の意味で、この上なく強い女性のようだ」

 それは──“彼女”を引き合いに出すことは、イリノアとしては他人に対する最上級の表現でもあったのだが、しかし、当の相手はゆっくりとかぶりを振った。

「いいえ……そう言って下さるのは、光栄ですけれど……私は強くなどありません、ドクター。そして、強くあろうと思いもしません──今さら」
「今さら?」
「私がいちばん強くあらねばならなかった時は、過ぎ去りました……もう、昔に」

 その“昔”のことについては、これ以上訊くべきではないとイリノアは直感的に悟った。それで、最後にもう一度確認するだけにとどめた。

「そうだとしても、その封冠を装着することにも、かなりの決意がいることは間違いない──本当にそれで、いいんだね?」
「私の意思で、私自身が望んだことです」

 相手の言葉にイリノアはうなずいた。

「わかった……。それではあなたの望み通りの、その封冠を制作することにしよう。やはり、僕自身の気持ちとしては、そういう物を作りたくなどはないが……本当は、あなたが考え直してくれるなら、その方がいいと思ってもいたんだけどね……。だが、そこまでのあなたの覚悟と意志を見せられては、もはや僕なとが安易に口を挟むべき事柄ではないように思う」
「ありがとうございます、ドクター。ご理解いただけて──心から、感謝いたします」

 頭を下げた相手に、イリノアは横に首を振り、

「いや、いいんだ。……これは言わば、僕があなたにできる、せめてもの尊敬の印なんだからね。決して賛成はできないが、あなたが教えてくれたものには、相応の敬意を払うだけの価値がある」

 彼の言葉に彼女はにっこり微笑んだ。その全く何の影もない表情に、イリノアはそれだけにかえっていたましいものを覚えずにはいられなかった。だが、それじたい相手への非礼であると感じる今の彼は、そのことは表に出さず、ただ、

「もう一つだけ、聞かせてもらってもいいだろうか……?」

 持ったものを相手に手渡しながら、そう言った。

「何でしょうか?」
「なぜ……司令なんだろう?」

 彼のその問いかけに、

「──それは、あの方が私に新しい道を示して下さったからです。たぶん、ご自分で意図してのところとは違っていたかもしれませんが」

 そう答えて、彼女はイリノアから受け取ったもの──自分の眼鏡をかけた。
 すると、そこにはもう、全く普段通りの彼女──特務機関フェンリルのロイ司令の秘書官として、常に影のようにそのそばにつき従い、きわめて有能だが、人目を引くことはなく、ただ、時としてその主が他者に与える冷酷さ・刺々しさを穏やかに和らげる緩衝材の役割を果たすがゆえに、“ドライアイスの剣の鞘”と言われる、フェンリルのオフィサー──梟のメティファが立っていた。

「──そして、もう一つには……」
「もう一つには……?」

 決して目立たないが、フェンリル内部でその存在は誰も知らぬ者とてない彼女──だが、その彼女の内面をいったいどれほどの者が知っているだろうか……?

「あの方が本質的には、誰も必要とはされない方だからですわ──私をも含めて」

 この眼鏡の下の彼女の素顔を自分は忘れないだろう、とイリノアは思った。

─ FIN ─


P.E.T.S & Shippo Index - オリジナルキャラ創作