Episode03 — “裏”開封— prologue
光はない。かといって、闇に閉ざされてもいない。
そこは、どこでもない場所・・・。
雲一つない中、太陽もまた見当たらないというのに、薄暮、いや白夜を思わせる空が上には広がり、そして、下には広漠たる大地が果てもなく続いている——が、そう言えるとしたら、そう認識する者があってのことである。
そこには、何ものも存在しない。ほかのありとあらゆる次元と空間から隔絶され、その中に変化するものも何もない。
そうであるからには、そこでは時間も流れていなかった。
一にして全。全にして一。これ以上何を加えようもなく完成していると同時に、何をもってしても補ないようがないほど決定的に欠けている。
本来、どこにも存在しない——ありうべからざる世界。ある一つの目的、そのためだけに、創造された——
だが、そこに変化が現れ、止まっていた時が進み出す・・・。
いつの間にか、一人の男がそこにいた。
ここがどこか、自分がいつどうやってここに来たのか、本人にとっても分からないことだった。だが、昏く深くあくまで冷たい目はさざ波ほどの動揺も映し出してはいない。
目は一つしかない。片方の目は潰れ、閉じられたままである。だが、残された方のその目は全てを見通さずにはおかないように、いま眼前を見据えていた。
祭壇のようなものがそこにしつらえられている。
それは人間の文明が知らないばかりか、かつて想像したことすらない形体だが、それでも、ヒトの原初的な畏れを呼び起こす威厳があった。だが同時に、“神聖”と呼ぶには、はばかられるものでもあった。
その上に一振りの刀がある。
安置されているのではなかった。祭壇の中央辺りに突き立てられているのだ。刀身の半ばまで埋まるくらいに深く・・・。
日本刀のようにも見えた。
否、全体の形はそう思わせもするが、むろんそのものではない。印象が近いだけで、正確には様々に異なっており、人の手になるものとも見えず、材質も全く不明である。
いや、そんなことなどより、何より——
それからは明確な意思が感じられる。単なる物体ではあり得なかった。それは音声による通常の、もしくは、思念波のようなものであろうと——あらゆる意味で、言葉に類するもので示されたわけではなかったのだが・・・。
「お前か、俺を呼んだのは」
委細構わず、問いかける。
すると、応えが返る。
起こったことは、剥き出しになった半分ほどの刀身が光を反射して一瞬輝いたように見えただけ——しかし、光源の所在も判然とせず、光の射す方向も不明瞭なこの場所でである。
しかし、それで、その意思は伝わったようだった。
「抜けというのか・・・?」
普通の者なら、近づくのも躊躇したことだろう。だが、気にするふうもなく祭壇へ近づき、無造作にその刀の柄に左の手をかけた。苦もなく抜ける。突き刺さっていたのが不思議なほど、何の抵抗もなく・・・。
——が、その途端・・・!
ぐにゃりと視界が歪み、覚えず膝をつく・・・瞬間、それが決してただの錯覚などではないことを卒然と悟っていた。
柄に触れた手のその部分から身体、いや、それだけではない、際限なく何もかもすべてが吸い込まれ、消失していこうとする感覚・・・。
「貴様っ・・・!!」
手を放すことは出来なかった。すでに自分の意思で動かすことが出来なかったがゆえに・・・。
そして、この世界全体が刀の存在する一点に向けて収斂される ——広大な空全体がそこを目がけて一斉に落ちてくる・・・また、大地のことごとくがそれへ向けて同時にわき上がろうとする・・・そうした気配・・・。
もし、数瞬遅かったら、すべて終わっていたことだろう。
右手で、左手の手首を打つ。指を、手を開かせる、経穴を。できる限り素早く——だが、焦りで打つべき所を外すような乱れは見せず・・・仮に外していたとして、二度目はなかった。
五感全てが悲鳴を上げ混乱し、正常な通常の機能を失いつつある中、鋼鉄の意志を持って、正確に。
放された刀が下に落ち、再び祭壇の上に音もなく突き立った。
周囲の、感覚に覚えた異変も収まっていた。
刀身が光を放った。一度目より鈍い光を・・・今度は何かの意思は伝わってこなかった。代わりに、無念さが重い霧のように広がった。獲物をいったんは口の中まで入れながら、牙に引っかかった皮一枚こそげ落としただけで、むざむざ逃してしまった肉食生物のそれのような・・・。
そしてまた次には、辺りに何ものの姿もなくなっていた。
時は、また再び凍えた。
※
気がつくと、山あいの高原だった。青空には白い雲が浮かび、吹き渡る風が一面に茂る草に縞模様を作ってなびかせる。それより、踏みしめている足元の方が下だという、確かな重力感覚があった。通常の、あるいは、以前いた世界に戻ってきたことを知った。
(俺を喰いそこねて、吐き出したか・・・)
意識の流れはいったん途切れていたが、認識できなくなっただけで、自分が正確には気を失っていたようなわけではないことは解っていた。夢でも幻でもない。
その確たる証拠は、左手にあった。——いや、事実としては、“なかった”と言うべきであろう。左手の多くの肉が融けるように崩れ、掌と指の一部では、骨までが露わになっている・・・。
(・・・?)
いぶかしむ。強い痛みを覚えること、そして、その原因である傷がそのままであることに。
軽い傷ではない。深手と言っていい。見ているうちにも血は溢れ続け、それも一定のリズムで多くの量が噴き出す。搏動に合わせ——それは、ある程度大きな血管が切れている印だった。さわらずとも、脈を打つのがその近くで感じられる。そこに、もう一つ心臓ができたかのようだ。
いずれ、何もせぬまま短時間で癒えるような傷ではない。そのまま残っていることに、なんの不思議もない——ただし、一般には、である。
この男にとっての通常なら、治り始めていてしかるべきだった。今は戦いの場にない以上、完治まではいかないとしても、あれもまた、まごうかたなき戦いだったからには・・・。
(奴に喰われた痕だからか・・・)
あそこには、あれ以外には何もなかった。だが、おそらくは、自分以外にもこれまでに何人か、あるいは、もっと多くのものがあの場所に呼び寄せられ、そして、ああしてあの刀によって跡形もなく消え去ってきたのだろう。
容易に想像がついたが、そのことに関心はなかった。あるのは、あれの持つ力についてである。
(——使えるか?)
もう少しで、自分自身あれに喰われるところだったというのは、充分承知している。助かったのは、半ば僥倖に過ぎないことも・・・だが、だからといって、避ける理由はない。どんなに危険であったとしても、何の手段もないなどということはない。
——とりあえず、今はその前にやることがある。
少し辺りを歩き回ると、目当てのものが見つかった。
人の背の高さに迫るほどに大きな岩。大きさもだが、日なたにあって、日の光を充分浴びていることが条件を満たしていた。
右手をまっすぐ伸ばし、掌を岩に当てる。思ったとおり、その面は温かいというより、熱さを感じるくらいであった。
だが、このままでは役立たない。少しの間、その姿勢のままでいた。たちまち掌に伝わる熱さは高まり、次第に通常では考えられないほどの熱を持ち始め、手を当てた辺りの岩肌からゆらゆらと陽炎が立ち上る・・・。
熱を与えたわけではなかった。
一方で、岩が自身で日を遮り、日陰になった部分では、表面がうっすらと白い衣を纏ったようになり、それが幾重にも折り重なって、徐々に白が強くなっていった。——霜。季節、そして、気温とまったく無関係に、霜がつき始めているのだ。その部分の温度は、それほどに下がってきているのである。
真っ当な熱力学を無視して、岩全体が持っている熱エネルギーがその表面上の一ヶ所に偏って集まりつつある——いや、そう集めたことによる結果だった。
しかし、それでも——
(まだ、足りんか・・・)
予想より、この岩が持っていた熱の総量は少なかった。
(ならば——)
右手を離す。そして、一つしかない目でその部分をねめつける。どこまでもまっすぐ強く ——あたかも視線で、岩を穿つかのごとく・・・。
最初のうち、見た目に何の変化もなかった。
だが、その裏ではとてつもないことが起きつつあったのである。
岩の表面の一部が、やがて、ぼんやりと赤い光を帯び出した。そして、だんだんそれが強くなる・・・。
そこに現れてきていた熱量は、いまや、岩の内部に存在する熱をすべてを合わせた量を完全に凌駕していた。
——現在だけではない、この岩がかつて持っていた熱量をも、時間を越えて、いま現在のこの場に無理やり引き出したのだ。
ついに、硬い岩の表面が飴のようにとろけ始めた。
それを確認すると、傷口をぬぐい、中に丸く切断面の見えている大きめの血管を右手の指でたんねんに押しつぶし、その上で、おもむろにその左手をそこに——限られた面積の溶岩に押しつける。
空気がはぜる。水分が一瞬で蒸発する音と共に、水蒸気ではない、ものの燃える白い煙が上がり、血と肉の焼け焦げる臭いが漂う。
そのまま、いた——ゆうに十秒以上ものあいだ。
痛みを感じていないわけではない。現に、筋肉は腕ぜんたいに至るまで、固く強張るほどに引きつれている。
それをぴくりと眉を動かしたのみで、苦痛の呻きすら洩らさない。
痛みを覚えたとき、動物が呻きや叫び声を上げることには、重大な意味がある。そうすることで身体は痛みへの対応をはかり、また、いささかなりとそれを受容できるのだ。
しかし、常人なら、ショック症状を起こしかねない激痛の中、生き物として当然な、そういった本能的反応さえ、否定している。
いや、もし、そうする気があるなら、初めから痛みを感じないでいられることもできたのである。自分の痛覚を操作するぐらい、わけもないことだった。
だが、あえてしない。痛みを避ける必要も理由も、自分に認めない。
何より——
いかな激痛でも、今もなおこの胸の奥を灼きただらせる痛みに比べれば・・・ただの肉体的な苦痛など、まったく何ほどのことはなかった。
だから、ねじ伏せる。たとえ、他の者にとって死ぬほどの苦しみであろうと。
だが、自分から苦痛を求めるようなこともまたしない。あえて自身を傷つけたのは、かつてただ一度のみ。その痕は、今も額にある。他の無数の傷が次々と消えていく中、この十字の傷だけは生きている限り残るだろう。それは自ら己に刻んだ罰として、魂にも刻印したものだからだ。
それより他のことはしてこなかった。それで充分と考えてのことではない。それ以上、たとえどんなことをしたところで、到底足りはしないと思っているためだ。そのうえで、必要も意味もなく自分を痛めつけるのは、快楽に溺れるようなことと本質的に何ら変わりもない。より深い痛みから、いっとき目を背けるためのごまかしでしかないのだ。
自分自身に関することにも寸毫の揺らぎも曇りもない、冷酷なまでに透徹した思考はそこまで見切っていた。
今も正確な判断が困難なはずの状況で、全身に脂汗を滲ませながらも、あやまたず充分と見きわめただけの時間そうした後には、手を離した。
左手は、ひどいありさまだった。
だが、とりあえずこれで出血は止まる。
実は、手を元に戻すだけなら、おそらく他にも方法はあった。岩にやったように時間に干渉し、手の時間だけ無理やり過去に戻せば、あれに喰われる前の状態に戻りはしたはずなのだ。
だが、そうする気はなかった。元に戻すということは、あれに触れれば、また同じように喰われるということだった。そして、今度こそは、手のみならず身体まるごと喰われるかもしれない。それでは意味がない。まったく元のままでは、不足なのだ。受けたこの傷を踏み台にして、さらに上に行かねばならない。
探しだす。あれを使える方法を——それに必要というなら、そのための力をもまた、手に入れる。
どこか分からない遠くを一つきりの目が見やると、その姿はすでに辺りにはなかった。
高原を、また一陣の風が渡っていく・・・。