守護天使ティコは狂乱の場のただ中に居た。
狂っている……すべてが。彼が未だかつて見たこともない凄惨な姿をさらし、敵対する禍々しき者達。姿からして人間だと思われる十数人の敵対者が目の前にいる。しかし、焦点を失って白目をむき、全身をだらりとふらつかせながら近づいてくるそれは人間と言うよりゾンビと形容した方が正しかろう。その中心に、彼らを従える悪魔がいた。
『シャァァァァァアア……キザマァァ……ゲグヒグゥ……シュゴテンシ……ティコ……ダナ?』
名前を当てられ、それまでただの魔物と思っていたティコの予想は外れ、彼は驚愕した。誰かによって作られた魔物ではない。自らを律する意志を持っている。
「お前は……呪詛悪魔か……」
問われた悪魔はそれに答えず、配下達に号令を発した。
『シャァァァァァ! ギサマラ……イケ! ゴロゼ! ブッゴロゼ! シュゴテンジをゴロスンダァァァ!』
号令を受け、それまでだらりと体をふらつかせていたのが一変、弾かれたように力を込めて男達はこちらに駆けだしてきた。全員で取り囲んで袋だたきにするつもりか。
しかし、ティコの動きはそれらを上回っていた。
「遅い!」
真正面にいた男に突進をかけ、ティコは男の拳をかわすと跳躍し、男の片腕を掴んで、肩に飛び乗った。勢いで男の背後に降り立つとそのまま掴んでいた腕を引っぱり、男を大きく投げ飛ばす。
まず、一体。
『ガァァァ!』
機先をくじかれた男達はいきりたち、再びティコを取り囲もうとした。するとティコは腰をかがめて次の瞬間、鋭い回し蹴りを放ち、4,5人の頬をまとめて蹴り飛ばした。
次に、唸るような声を発してよろめく男達のみぞおち、喉頭、肝臓といった人体急所の各所をティコは目にもとまらぬ早さで打撃する。打たれた男達は息苦しいようにむせり、膝を屈して倒れていった。
これで、六体、残りは七体。
勝てる……。
目にもとまらぬ早業だった。天界での戦闘訓練が効いている。争いが嫌いだったティコだが、天界での戦闘訓練では彼は並の一級守護天使でも及ばぬほどの実力を身につけていた。通常の生活では使うこともないだろうと思っていたが、まさか役立つ日が来るとは……。ティコは複雑な思いだった。
残りの男達は、今度はうかつに攻撃することはせず、大きく円を描いてティコを取り囲んだ。徐々に円を狭め、ティコに接近してくる。
今度こそ完全に囲まれた。どうするか……。
『ルガァァァァ!』
男達が咆哮し、拳を繰り出そうとしたそのとき……。
ティコは洋服の袖から細い棒を取り出し、それを一メートル半ほどの長さに延伸させると、中心を持ち棒を回転させ始めた。
男達の人体急所を回転した棒の先が鋭く撃つ。男達は攻勢を緩めよろめいた。次の瞬間、ティコの棒から強力なエネルギーが吹き出し、渦を巻くと男達を強力な力で四方に吹き飛ばした。
「タリジェント・ストーム」。棒や槍を武器として用い、回転させて敵の急所を切り刻み、よろめいた敵を猛烈なエネルギーの奔流で吹き飛ばすという、敵に囲まれた際にもっとも効力を発揮する、ティコが天界で編み出した技の一つだった。
男達は全員が倒れ、動かなくなっていた。一部始終を傍観していた呪詛悪魔は、いきりたってわめき始めた。
「ギィサマァ……抵抗スルゥダトォォォオッォオォ!?」
「誰だ、お前は……」
すると、わめいていた呪詛悪魔は、一転、愉快だというように笑い始めて、自分の名を名乗った。
「ヒ、ヒヒヒゥゥヒィヒヒヒ……。オレハ……ジード……ダ。オボエテオケ……」
「呪詛悪魔ジード……何が目的だ。呪詛悪魔に恨まれるようなことは覚えがないんだがな」
呪詛悪魔。生前、人間によって虐待されたことから、人間に恨みを持って転生した、守護天使とはまるで正反対の存在。その中でも、この呪詛悪魔ジードは特殊だった。驚くべきは、その醜い姿……。通常は守護天使と同じく人間の姿になるはずだが、まれに、より力を得るために数々の動物霊を自分に取り込み、人間の姿を捨てて怪物のような姿になりはてる者がいると聞いたことがあった。「モンスター」と呼ばれる呪詛悪魔のタイプ……通常の呪詛悪魔以上にやっかいな相手だ。
「ヒィハハアハッハアァ! オマエの主人がゲンインにキマッテルダロォォォ……」
ティコは戦慄した。やはりご主人様か。ご主人様が消えた事にも関係が……。
「私たちのご主人様が消えたのも、お前たちの仕業か!? 答えろ!」
「ヒ……ヒィヒィィ……タイシタコタァシテネェヨ……泳ガセテルダケダ……」
「泳がせる……だと?」
「アノ女ハ偽天使ニ惹カレルラシイカラナ」
「どういうことだ? 偽天使とは何だ! 説明しろ!」
「ヒィヒィ……シラネエナァァァアァッァ。ドノミチウォマエは死ヌンダシ。コタエテモ意味ネエェェェシ!」
呪詛悪魔との戦いが始まろうとしていた。改めて相手を見る。およそその姿は人ではない。そう、例えるなら奇っ怪な人形。
異様に背が高く、自分の目線が奴の胸あたりにあたる。目測で恐らくティコの1.5倍の背丈はあろう。異様に長い四肢、全身を彩る奇妙な黒色模様。顔は人間のそれではなく、目も鼻も無い、猛禽のクチバシに分厚い人間の唇を縫いつけた様な、酷く不気味な容貌を呈している。頭部からは鋭利な針状鶏冠が後方へ張り出し、その姿はもはや禍々しいを通り越して、邪教の崇拝偶像に近い。巨大な体躯もあって、相当の威圧感をこの呪詛悪魔から感じる。自分の技は果たしてこいつに通用するのか? ティコは気を張りつつも、その異様な威圧感に必死で耐えていた。
「ウォマエはココデ死ヌンダ……ココデナァ!!」
呪詛悪魔ジードの片腕が伸び、鋭い槍となってティコを襲う。ティコは瞬時に動いていた。ジードの伸びた片腕の上に飛び乗り、そのまま腕の上を駆けてジードに接近する。ジードのもう片方の腕が襲うも、ティコは跳躍してかわし、次の瞬間にはジードの上半身を眼前に捉えていた。
ティコは武器の棒を思い切りスラストし、棒の先を渾身の力でジードの首もとに打ち込んだ。通常の呪詛悪魔なら、これで致命傷だ。
しかし……。
「な、なにっ!?」
返ってきたのは鮮血ではなく、カツン、という乾いた音がこだまするのみ……ジードの皮膚がまるで金属のように、棒の撃力を完全に止めていたのだ。
『ヒハハハハハァ! ソンナ攻撃キクガァァァ!! 貧弱! 虚弱! 脆弱! 軟弱! 劣弱ゥ!』
慌てて距離を取ろうとしたティコだが、この悪魔はそれを許さなかった。棒をあっという間にへし折り、突き出していたティコの右腕をわしづかむと、ジードは殺人的な握力でティコの右腕を握りつぶした。
「うっあああああ!!」
呪詛悪魔の一方的な攻撃が始まった。ジードは掴んだティコの右腕をティコの体ごと大きく振り回し、反対側のアスファルトの地面に思い切り叩き付けた。
「がふっ! がっ……はっ!」
胸から勢いよく地面に叩き付けられ、ティコは呼吸困難に陥った。上半身を強く打ち、痛みで立ち上がることができない。
顔だけ見上げ、ジードを捉えると、ジードは片腕を巨大な鉄球の形に変形させていた。大きく振りかぶり、ジードはそれをティコの背に叩き付けた。
「がっああああああ!!」
ティコは激痛で失神寸前だった。意識がもうろうとする。あばらの何本かが折れたようだ。駄目だ。この呪詛悪魔……強すぎる。なぜこんな呪詛悪魔が私たちを……。
このまま殺されると思ったが、ジードは攻撃を休止し、分厚い唇をブルブル震わせながら笑い始めた。
『ヒィヒィヒヒヒヒ……タダ潰スンジャオモシロクネェ……』
ジードは近くに倒れていた男の背広から、何かを取り出した。リボルバー式の拳銃だった。ジードは大きな手でそれを掴むと、照準をティコに合わせた。
『ウォマエのコギレイな顔ニ穴開ケテヤル、血ィ吹キ出シテ死ネヤ』
注意深く照準をティコの顔に合わせ、この恐るべき呪詛悪魔は笑う。
駄目だ……殺られる。ティコは絶望した。ご主人様……申し訳ありません。こんなところで……私は!
そのときだった。ティコの脳内に声が響いた。
【使え……あの力を】
ティコは驚愕した。テレパシーか!? まさか、あなたは……。
(ラエル、ラエルなのか!?)
呼びかけに、声の主は応じなかった。
【お前にかかっていたセイフティは解除された。今なら使える。あの力を。フェルジーンの力を】
(フェルジーンの力……私に、使いこなせるのか? 私などに……)
【フェルジーンの力を持って、敵を討て。主人を守れ……シャム猫のティコ!】
言葉は遠くなっていった。ティコは立ち上がった。満身創痍だったはずが、体の芯から膨大なエネルギーを感じる。制御することが困難なほどに……。
『ギィィィィ死ネヤアアアアアア!!』
ジードの持っていた銃が、火を噴いた。しかし……。