真純お姉ちゃんが帰りたいと言いだした。
あの時のお姉ちゃんの声は、叫びに近かった。時計の針を見つめて……彼女は一体何に震えていたのだろう。
『それじゃあ、気を付けて帰れ』
『うん……』
屋敷の玄関まで送っていき、出ていこうとしたお姉ちゃんは、ゆっくりとこちらを振り返った。いつの間にか、晴天だった空は跡形も無くなり、灰色の雲が空一面を覆っている。夕刻もとうに過ぎ、夜が近づいていた。
『どうした』
『……え?』
『震えているぞ』
『あ……ぁぁ……』
妙に生ぬるい風が吹く、分厚い雲に覆われた暗闇の中で……。
私と、そしてお兄ちゃんの顔を……彼女はいつまでも名残惜しそうに見つめていた。
「あいつは、一体何に怯えていたんだ?」
お姉ちゃんが去った後のエントランスホール。彼は重たい玄関の扉を閉めて、私に向けてか、自分に対してか、独り言の様につぶやいた。
私にとっても、今日のお姉ちゃんは訳が分からなかった。ただ、昨日、あるいは今朝、彼女の身に何かあったのかもしれない。
気が付くと、何故か私の脚も震え始めていた。さっき真純お姉ちゃんが小さな声で呟いた言葉を、頭が何度も再生して確かめる。家まで送ろうと言い出したお兄ちゃんの申し出を迷いもせずに断って、辛うじて私にだけ聞こえる位の小さな声で、彼女は言ったのだ。
『来たら、殺されるかもしれない』
誰に、殺されるというのだろう。何故、彼女はそんな恐い人がいる事を知っているの?
答えが、何故か身近な所にありそうな気がして、私はとても恐くなった。
「お、お兄ちゃん……」
得体の知れない恐怖に震えて、私はお兄ちゃんの側にぴったりとくっついた。
お兄ちゃんは彼女が走り去った方角をしばらく眺め続け、こちらに視線を戻すと、彼を見上げる私の頭を優しく撫でた。
「恐いか?」
私は頷き、お兄ちゃんの腰に顔をうずめた。布地の向こうから、彼のぬくもりが私の肌に伝わってくる。
「大丈夫だ。心配することはないよ」
大きなお兄ちゃんの手が、私の長い髪を優しく梳いてくれるたびに、恐怖感が拭われてゆく。心地良い……。
しばらくすると、お兄ちゃんは手を止め、玄関の反対側に向き直った。視線の向こうには昨日やってきた天使像の、ささやかな微笑があった。
「ここには、天使がいるからな」
ちょっと不自然に思った。お兄ちゃんはこの天使像が嫌いだったはずなのに……。私の為にそう言ってくれたのかもしれない。
華奢な体に不釣り合いな、大きな羽をわずかに広げ、天使の少女は玄関の扉に向かって微笑んでいた。この屋敷を訪ねる、全ての人に祝福を与えるのだろう。一瞬、視線が重なるはずの無い彼女と、何故か目が合った気がした。
――私を、守ってくれる?
彼女の決して変わることのない微笑は、それに答えてくれたのだろうか。アルカイックスマイルの意味は、どんな風にも取れてしまうと、ユーイチお兄ちゃんが言っていた。無表情と同義だと……。イエスにも、ノーにも……。
「私も、お前を守ってやる」
この時の言葉は、きっと一生忘れない。
ユーイチお兄ちゃんが、後ろから私を抱きすくめた。何が起こったのか、はじめは分からなかった。私の背中で二人の体温が混じり合い、そしてお兄ちゃんの鼓動が聞こえる。じっとそのままでいると、お兄ちゃんの言った意味がようやく分かって、嬉しさがこみ上げてきた。
「ほんと? お兄ちゃん」
「ああ、本当だ」
お兄ちゃんの腕に抱かれながら、私は夢心地になった。いつか読んだ、絵本の物語が脳裏に浮かぶ。魔物に捕まえられた小さな少女を救ってくれる、不思議の国の王子様。
「そして、ティコもな」
いつの間にか、私のすぐ側にティコが居た。足音も立てずに、いつの間に来たのだろう。
「ティコも、お前を守ってくれる」
私の顔を見上げて、ティコはニャアと鳴いた。まるで私に何か喋っているみたいだった。主人と同じ、彼はとても深い蒼い目で私を捉えた。
私はその意味を理解できなかった。こんな小さな体で、猫の体でどうやって守ってくれると言うのだろう。ティコは、ずっと私から目を離そうとしなかった。私は手を伸ばしてティコの細い背中に触れた。生きている証の体温。これからも、ずっと一緒に居られるだろうか……。
お兄ちゃんが私から手を離して、再び天使像を見上げた。冷たいはずの彼女に、彼は何かを見いだしたのか……。白い石で作られた彼女の顔は、こちらに向かっていつまでも変わらぬ笑みをたたえている。誰に微笑んでいるのだろう。私? お兄ちゃん? それとも……
――真純お姉ちゃん?
屋敷内も薄暗くなり、自動制御なのか、天井のシャンデリアの明かりがつき始めた。
「夜だ。君ももうすぐ帰れ。私が送っていく」
「うん……」
小さな声でそう答えた私は、もう一度天使の像を振り返った。
だが最後に見た彼女は、シャンデリアの明かりを受けて鼻筋から頬に影が差し、どことなく不気味に見えた。何か、とても恐ろしい事が起こりそうな……。
私を送り出そうとして玄関の扉を開くと、ユーイチお兄ちゃんは忌々しげにつぶやいた。
「雨が、降りそうだな……」