「ティコ!」
ドアを開けるなり、すぐ目の前にいたティコが飛びついてきた。
「うわぁ! ティコだ!」
肩に飛び乗ったティコを両手で撫で、そのまま姿勢を保ちながら外に出る。
「えへへ、良く来たね。一人で来たの?」
「学校の帰りでね」
「……え?」
返事をしたのは、ティコではない。そうだとしたら、この世は魔法の世界だ。
いつから居たのか……目の前に、その声の主が立っていた。
「近くに来たから、寄ってみたよ」
「ユーイチお兄ちゃん!」
お兄ちゃんの突然の来訪に、私の心は躍り上がった。
黒いズボンに抱きつく。片手で私の頭を撫でてくれるお兄ちゃんを見上げると、彼の学ランの第1ボタンがうざったそうにはずされていた。よく見るとカバンも持っていない。
「特に用事はなかったんだがな。邪魔だったか?」
「うううん、全然! 来てくれて、美月とっても嬉しいよ!」
私が大はしゃぎで笑うのにつられたのか、お兄ちゃんも少しだけ顔をほころばせた。彼のいつもの無表情からすれば、それは私をさらに喜ばせるのに十分だった。
「よくここが分かったねぇ」
「ああ、ティコが教えてくれた」
お兄ちゃんが地面に降り立っていたティコを目で指した。
「ティコが?」
当のティコは私が不思議そうに眺めているのも知らず、目を閉じて私の側で丸くなる。
どうしてティコが私のおうちの場所が分かるんだろう。犬みたいににおいを嗅ぎつけてきたのかな。でも、猫だし……。
「そんな事より、どうやら泣いていたようだが?」
お兄ちゃんが私の方へしゃがみ込んで言った。もういつも通りの表情に戻っている。
視線と視線が重なり、お兄ちゃんの青い目が私を捉えた。初めて会ったときと同じ、何もかも吸い込んでしまいそうな深い蒼。
さっきまで泣いていたことを当てられてしまった。別に隠してたわけではないが、泣いた痕跡など、もうすっかり無くなっていたと思っていたのに……。
私みたいな子供の事なんて、なんでもお見通しなのかな。
「うん、朝ね、お兄ちゃんが、来なかったから……」
「私が?」
「えと……そうじゃなくてね。もう一人のお兄ちゃん」
お父さんに怒られたと言う事は、思い出したくなかったから、言わずにおいた。
「ふうん」
きっと昨日お父さんに見つかったから……。思い出したくないという私の意志に関係なく、あのときの情景が再び脳裏から浮かび上がってくる。もう二度と健介お兄ちゃんが来なかったら、私はお父さんを恨むだろうか……。
再びこみ上げてきそうな涙をせき止めようと、袖で目を覆おうとしたその時だった。
「待ちやがれええええ〜〜〜! ろぉおおおおおっく!!」
どこかで聞いたような声。その声とともに地面を蹴る音が次第に大きくなってゆく。
音のする方に目を向けてみると、犬のロックがものすごいスピードでこちらへ駆けてきた。それを必死に追いかける、健介お兄ちゃんも見える。
あまりに突然の出来事に、喜びよりも驚きの方が先に出てきた。
何よりロックが全速力で駆けてくるというのは、間違いなく私に対するまさに体当たりの愛情表現だったはず。私はどこに逃げようかと辺りを見回すが、そんなことをしているうちに、ロックはもうすぐ目の前に来ていた。
「うわっ!」
だが、何故か思わずしゃがんで身構える私の横を、ロックは素通りしていった。
そして「フギャア!」という猫らしき悲鳴。
ロックが、私ではなくティコに飛びかかっていた。
「ああっ、だめだよぉロック!」
だがティコは危なげなくロックの攻撃をかわして、塀にジャンプし、そして次にユーイチお兄ちゃんの肩へとまるで忍者のようにひらりと飛び移る。
「グウゥゥゥゥゥ………」
ユーイチお兄ちゃんの前で、唸るロック。だが対するお兄ちゃんは眉一つ動かさない。
「はあっはあっはあっ……ったく、ロック! いい加減にしろ!」
息を切らしながら追いついてきた健介お兄ちゃんが、ロックの頭に真上から拳を打ち据えた。かわいそう……。
ロックは「ぎゃん!」と鳴いた後、頭をぶんぶん振って、ようやく大人しくなった。
「お前の飼い犬か? しつけというものが全くなってないな」
ユーイチお兄ちゃんはあきれ顔で健介お兄ちゃんにそう吐き捨てる。
「ん? お前……どっかで……」
二人のお兄ちゃんの視線がお互いに重なり合った。
しばらく対峙する二人。私は妙な緊張を覚えてしまった。相変わらず冷静かつ無表情なユーイチお兄ちゃんに対し、健介お兄ちゃんはどこか間の抜けた表情で相手を見つめている。
そして腕組みしてうんうん唸り、しばらくすると、口を大きく開け素っ頓狂な声を出した。
「あああああ!! てめえは同じ角高の!」
「俺を知っているのか?」
ユーイチお兄ちゃんが意外そうな顔をした。
「知ってるもなにも! おめ〜はいつも学年成績トップ、それに鼻かけていつも他人を小馬鹿にした態度取る一匹狼で学校でも有名じゃねーか!」
「別にそんなもの鼻にかけてるわけじゃないさ。そう捉えてやっかむくらいの学力の方を、どうにかしたらどうだ?」
「かぁあああああ〜〜〜!! やっぱ噂通りだぜ。やっなヤロー!」
あ、あの……。
どうしよう。ケンカしてる。お兄ちゃん達、ケンカしてるよ……。
「嬢ちゃん! 俺にナイショでこんな男とつきあってたのか! ええいだめだだめだ お兄ちゃんは許しませんからねっ!!」
「美月。コイツ、阿呆か?」
「てんめえええええええ……言わせておけばあああああ!!」
健介お兄ちゃんが腹の底から響いてくるようなうなり声を上げていきり立つ。恐い……。
今にもユーイチお兄ちゃんに掴みかからんばかりの勢いだ。
「止めて! 健介お兄ちゃん」
「止めるな嬢ちゃん! これは男同士の問題だ」
「フンっ、くだらん。相手にするだけでも疲れる」
「フカシこいてんじゃねえっ!」
「やめてえっ!!」
私は出来る限りの大声を上げた。幼い少女特有の甲高い声が辺りに響き渡り、ロックお兄ちゃんははっと我に返って、私の方を振り向いた。ユーイチお兄ちゃんも、私の方をじっと見つめている。
いつの間にやら、目から涙が出ていた。大きな声を出せたのはこれが最後で、どうにかして喉の奥から続きを絞り出そうとしても、その声はかすれるばかり……。
「二人とも、やめてよぉ。美月は、どっちのお兄ちゃんも大好きなのに……グスっ……ケンカなんか、して欲しくないよぉ……仲良く、して欲しいよぉ……」
ついには大粒の涙が道路にぼたぼたと落ちていくようになった。溢れる涙で視界は歪み、二人の表情は読みとれないが、どちらもただじっと黙って私の顔を見つめている。
私の叫びが、明らかに二人の険悪な空気を破ったようだ。
「嬢ちゃん、悪りぃ。……ごめんな。泣かないでくれよ。俺が悪かったから」
「うん……」
袖で瞼をごしごし拭いて溢れる涙をせき止める。なんだか、今日は泣いてばかりだ。
「そうか。美月の言っていたもう一人というのは、お前の事か」
ユーイチお兄ちゃんが、さっきとは違ったトゲのない口調でつぶやいた。
「まあな」
私の前にしゃがみ込んで、健介お兄ちゃんは答えた。
「そうか。なら、信用しても良さそうだ」
「おい、それ何様のつもりだよ。ったく」
ぐちぐち言い合いながらも、どうやらお互いの警戒心は解かれたらしい。
「お前、名前は?」
ユーイチお兄ちゃんが、しゃがんで背を向けている健介お兄ちゃんに向かって尋ねた。
「健介。片山健介だ」
彼はそう、名前だけ答える。
「ああ、あの陸上部の奴か。」
「あ? 知ってるのか?」
「県ベスト8の、部のエースなんだろう。まあ、少しは骨があるようだな」
「っだから! そういうとこが人を小馬鹿にしてるってんだ!」
危うくまたケンカになりそうになって私はまた心臓が縮みかけたが、幸いというか、それを遮る声が、全く予想しなかった方向から聞こえた。
「美月、また外にいるのか。騒がしいと思ったら、一体さっきから何をやってる」
「やっべえ……」
玄関から聞こえるお父さんの声がしだいに近くなるに連れて、健介お兄ちゃんから血の気がどんどん引いていった。どうやら昨日のことで相当苦手意識を持ってしまったらしい。
「嬢ちゃん、じゃあ俺そろそろ行くから。じゃあな!」
「あっ」
私が呼び止めようとするも、健介お兄ちゃんはあっという間にロックを連れて、そしてあっという間に走り去ってしまった。
「騒がしい奴だ」
ユーイチお兄ちゃんが、あきれたようにつぶやいたのが聞こえた。そんなに健介お兄ちゃんの事が嫌いなのかな。もっと仲良くして欲しいのに……。