ようやく薄暗くなってきた空一帯を見上げると、東の方から綺麗な闇のグラデーションを描きながら、西向こう側の空だけが焼けている。ごつごつした岩で囲まれた露天風呂の中で、私とかすみちゃんは仲良く横に肩を並べて熱めの湯船に体を沈ませながら、低い竹製の垣根の向こうに見える空の景色を楽しんでいた。
私「気持ちいいね〜」
かすみ「はい、とっても。景色も綺麗ですし」
ところどころに、ぽつぽつと一番星が輝いている。まだかすかに残る明るさの中で、それらは何かの星座を形成しているようだった。天体に詳しい人なら、言い当てられるかもしれない。
かすみ「真純先生ほっといちゃって、怒られちゃうかな……」
少し心配そうな顔をして、彼女はぽつりとつぶやいた。
私「まあ、あの人の事だから、まだロックとゲームコーナーで夢中になってるわよ」
初日、脱衣所で服を脱ぐのをしきりに恥ずかしがっていた彼女だったが、今日はやけに能動的だった。彼女の恥じらう姿をみて大喜びする先生がいないので気が楽だったのだろうか、室内の浴場での入浴もそこそこに、まだ誰もいない外の露天風呂に私を先導していった。
私「ねえ、聞きたい事があるって、言ってたわよね」
かすみ「あ、はい……」
彼女はしばらく何か思い悩んだように虚空を眺めていた。湯船から舞い上がる熱気と蒸気で濡れた彼女の額や頬が、後わずかで消えようとしている夕日の光をみずみずしく反射している。
二人だけしかいない露天風呂に、しばしの沈黙。近くで湧き出る湯の音と、熱気を帯びた風の音だけが耳元を通り過ぎてゆく。
どれだけ時間が経ったか、ゆっくりとこちらを振り向いて、彼女は切り出した。
かすみ「美月さんは……その……キスってしたことありますか?」
そんな彼女の質問に、湯船の気持ちよさにふわふわと空中を泳いでいた私の意識は一瞬で覚めてしまった。キスしたこと……。
美月「そりゃあ……あるよ」
正直な答えだった。特に嘘を付かなければならない理由もない。
かすみ「好きな人と……ですか?」
さらに追求するかすみちゃんに、私は当惑していた。彼女の目が、まるで隠された真実を読みとろうとするかのように、私の目をしっかりと捉えている。
美月「好きだった……のかな……」
好き? そう、当時はそのつもりだった。でもすぐに関係は終わってしまった。彼氏を見つけなければ、という年頃特有の焦りからきた、相手とのつき合い……。私の場合も、よくある話の一つに過ぎなかった。だがそれなりに楽しかった時期もあるし、自然の成り行きでキスをしたことだって今でも後悔していない。というより、今となっては後悔するほどの重みもなかったりする。
かすみちゃんは私から目をそらして何か小さな声でつぶやいていた。湧き出るお湯の音にかき消され、それは聞き取れない。彼女の意図が未だに掴めずにいると、かすみちゃんはさらに私を混乱させる事を聞いてきた。
かすみ「今まで……何回くらい、キスしましたか?」
子供の無垢さや純真さというのは、もしかしたらこういう時に一番表れるのかもしれない。少し儚げな表情をして湯船の中を見つめ続ける彼女に、私はどう答えるべきか迷っていた。
大体、回数なんていちいち数えた事もない。別に数え切れないほどしたという訳でもないが、こういう時はやはり、「一度だけしか、したことないよ☆」とでも言っておくべきなのだろうか……。
本来ならば湯船の中の体と同じく、ずっと弛緩させているはずだった頭をフル回転させるはめになった。こんな時に、真純先生だったらなんと言うだろう。
その時、ばんっとドアが勢いよく開く音がして、乱気流を起こす蒸気と共にあらたな来客がやってきた。と、思ったら、それはまさに私が今切望していた人物だった。
私「あ、真純先生。よかった、丁度良いところに……」
真純「ふったりともひっどいじゃな〜いのぉ〜☆ 先生だけのけ者なんてぇ〜☆」
かすみ「あ……」
先生が入ってきた途端、彼女は顔を赤らめて黙りこくってしまった。やたらと目立つ、先生の張りの良い胸や綺麗なボディーラインに、まだ慣れていないのだろうか。それとも今の話を聞かれたくなかったのか……。先生はずぶずぶと湯船の中に入ってきて、かすみちゃんを私と先生で挟むような形になった。
真純「ねえねえ☆ さっきまでなんの話してたの?」
案の定、先生が首を突っ込んできた。かすみちゃんが俯いたままじっと黙ってしまったので、キスの話を教えるのはどうもためらわれた。なんとかごまかすための方策を私は考え始める。
私「え〜っとぉ……そう! 私が昔つきあってた人の話を……」
真純「ああ〜! 美月がまだデート2回目の男に即アパートまで押し入られたって話?」
私「なんでそんな話になるんですかぁあああ!!」
かすみちゃんの顔が真っ赤になる。湯船の熱と合わせて、すぐにでもゆでだこになりそうだ。
かすみ「えっ!? あ、あの……じゃあ……その……つまり、そういう事も……?」
今にもかすれそうな声で、かすみちゃんが尋ねる。この温泉には大胆になるという効能もあるのだろうか。真純先生がこっちを向いてにやにやしてる。何よ……何よぉ……。
真純「どこまでいったかは知らないけど、アンタあの時すぐ別れちゃったじゃない」
あっさりとした口調で、先生はため息をついた。湯面がゆらゆらと揺れている……。あの時の私の心情も、同じようにふらついていたのかもしれない。焦りと興味本位だけで恋をしたのは、あの頃の私としてはしょうがなかった。気付いた時には、いつの間にか私の心の方が相手の人から離れていった事も……。
真純「まあ、私もそうだけどね」
私「え? 先生もなんですか?」
真純「うん。いろんな人とお付き合いしたけど、長続きした試しないな」
私「いろんな人と……同時に?」
真純「美月、死にたい?」
怒鳴らずに無表情で言われるととんでもなく恐い。ごめんなさい。今のは私が悪かったです。
機嫌が直るまで、しばらく黙っておく事にした。
先生が男性とつきあってた時期があったなんて、今の今まで私は気がつきもしなかった。単に私が鈍いだけだったかもしれないが……。彼女は昔のいくつかの恋愛についてほんのさわりだけ触れると、儚い思い出を吹き飛ばすかのように、ケラケラと笑い出した。
真純「笑っちゃうよね。いつもこの人となら一生やっていけるって思うのに、
別れる原因はいつもこっちの方だったのよ」
真純先生のその言葉に、私も同意した。恋の途中で、まるで記憶喪失になったかのように相手への情熱が急に冷めてしまうのを、何度か経験した事がある。そして関係が途絶えた後に、自分への嫌悪感に苛まれるというプロセスについても、どういうわけか私と真純先生は酷似していた。
真純「変よね。なんであんたと私ってこうなっちゃうのかな」
ぼうっと湯面を凝視しながら考え込む私と先生に、かすみちゃんが不安げな表情を向けてきた。
かすみ「あの……恋って、そういうものなんですか? 急に、冷めちゃうんですか?」
私「えっと……どうなのかな。でもかすみちゃんは……本気なんでしょう? ティコの事」
かすみ「……はい」
ゆっくりとうなずく彼女は、どことなく不安に怯えているような目をしていた。真純先生がわざとらしい笑い声を上げて「大丈夫!」と彼女を励ますが、こんな話題になってしまったせいで、すっかり気まずい雰囲気が出来上がってしまった。
私「あ、あの……真純先生は、どうして芸術家になったのかなぁ」
二人がきょとんとして私の方を振り返る。そんなに注目されても困ってしまうが、出来はともかく、なんとか話題をそらす事には成功した。
真純「どうしてって、私の親父がそれだったから……」
私「あっ、でもでも! じゃあどうしてお父さんと同じ道を歩もうと決心したのかなぁ〜なんて……あははは……」
なんとか突き通す私に、真純先生は少し笑いながら答えた。
真純「あらぁ、前言わなかったっけ?
もちろんこの仕事が前から好きだったってのもあるけど……
一番はやっぱり……」
すっかり暗くなった夜空を見上げて、彼女はうんと背伸びをした。舞い上がる蒸気は上昇するにつれて見えなくなり、それはまるで天に浮かぶ秋の星座に吸収されているかのようだ。そんな湯けむりを深く吸い込んで、真純先生は急に真面目な顔つきになった。
真純「親父を、超えるため……かな」