真純お姉ちゃんが居なくなっていい加減庭園にも飽きたので、ティコを連れて屋敷に戻っていった。
さてこれからどうしたものかと思案に暮れながら廊下を歩いていると、突然うしろから声を掛けられた。
「美月か?」
「お兄ちゃん!?」
うしろから聞こえてきた声は確かにお兄ちゃんのものだ。
真純お姉ちゃんと話している間に帰って来ていたのだろう。振り向くと、制服姿のユーイチお兄ちゃんが私の方を見て立っていた。
「よく来たな」
私の足下にいたティコがユーイチお兄ちゃんを見つけるやいなや、彼に駆け寄っていった。
「うん。えっと、お兄ちゃんのお部屋で遊んでいい?」
ユーイチお兄ちゃんはティコを持ち上げて片手で抱えると、それまでの無表情からわずかに笑みをこぼして言った。
「いいとも。おいで」
「ふうん。そんな女の子が居たのか」
ユーイチお兄ちゃんは机の側の椅子に座り、黒と銀が混じった髪をかき上げると、そのまま額を押さえてしばらく何か考えこんでいた。
「そういえば、そんな感じの子がいたような気もするな……」
お兄ちゃんの部屋は、古めかしいアンティーク調の照明で、壁のクロスをかすかな黄色に染め上げていた。
私は本来ならお兄ちゃんが使っているソファーの上で、真純お姉ちゃんの事を話していた。ティコは私の膝の上にちょこんと座っている。
「みつきにねぇ、粘土の工作の仕方教えてくれるの!」
「ふうん」
さして興味の無さそうな返事をすると、お兄ちゃんは立ち上がって窓の方へ歩き、外をぼんやりと眺めだした。
「あの彫刻家の娘か?」
「そうみたい」
私はティコの頭を撫でながら答えた。ティコは首を回して私を見上げると、姿勢をくずして私の膝の上で丸くなった。
「天使のセキゾウが来るってホント?」
「ああ」
お兄ちゃんは表情を変えずに答えた。お兄ちゃんが普段あんまり笑ったりしない事はだんだん分かってきたけど、こういう時くらい喜んで良いんじゃないだろうか。なにしろ、天使は幸運を運んでくれるのだから。
「胡乱な事だ……」
窓の外を見つめながら、お兄ちゃんはつぶやいた。
私はお兄ちゃんの言った言葉の意味が解らなかった。でもきっと、それは喜びを表す言葉じゃない。
「嬉しくないの?」
「別に……どうでもいいがね」
相変わらずそっけのない返事を返す。
しかたなく、私はティコを抱きかかえたまま立ち上がり、お兄ちゃんの部屋を見回した。
ふと、机の上に一つの写真立てがある事に気付く。
近づいて机の写真をのぞき込むと、そこにはユーイチお兄ちゃんと、一人の女の子が映っていた。
写真の中で、二人は仲良く腕を組んで笑っている。
お兄ちゃんにしては、珍しいくらいに屈託のない笑みだ。
「お兄ちゃん、この女の人なぁに?」
「ん?」
お兄ちゃんは窓から目を離すと、私の方へやってきて写真を一緒にのぞき込んだ。
「ああ。この写真か」
女の子の年齢は真純お姉ちゃんよりももっと上で、ユーイチお兄ちゃんと同じか、少し下くらいだろう。
思いきりおめかしをした服装で、ショートカットの綺麗な髪をしている。同じショートカットでも真純お姉ちゃんのようなボーイッシュな感じはない。むしろその髪型と屈託のないほがらかな笑みの組み合わせは、独特の少女らしい可愛らしさを発散していた。
「一年前の写真だ。昔、付き合ってた」
「それって恋人?」
「そうなる」
恋人という言葉は、私が覚えた言葉の中でも比較的最近のものだ。絵本を読んで、その言葉の意味も含めて初めて知ったときは、どこか新鮮でわくわくした感覚が私をずっと包んでいた事を覚えている。
「愛してた?」
「…………そうだな」
「今も?」
お兄ちゃんはしばらく間をおいて、写真を見つめながら目を細め、言った。
「今はもういない」
「いないの?」
「死んだ」
まるで呪文だった。
死んだ、という言葉一つが私の体と心、そして部屋全体の空気をも凍り付かせてしまった。しばらく頭が働かない。
もちろん、私は死などとは今まで全くの無縁だった。私の周りのすべての人は、当然明日も生きていて、私もまたずっとその人たちと一緒に居られるだろうと……。
しかしお兄ちゃんから発せられたその言葉は、私の幼い安全な世界をナイフのようなものであっという間に切り裂いてしまった。
親しかった者の死、永遠の別れ……。
「交通事故だった。私とあいつの初めてのデートになるはずだった。だがあの事故で、あいつは死んで、そして私だけが生き延びた」
なんだろう。
写真のユーイチお兄ちゃんと、その隣の女の人を交互に見つめた。
この感覚は、なんだろう……。
我が家に帰り、1日を終えてベッドについた後も、その不思議な感覚はいつまでも頭から離れなかった。
お兄ちゃんはあの後、ずっと黙りこくったままだったのだ。