今から数年前。
私の人生を大きく変えた日があった。
まだ小さな子供だった私にとって、のちの人生を大きく変える出来事が。
それは、私にとってはプラスのことではなく、マイナスのことだった。
大切な者の死によって、私は変わった。
いや、幼い心、弱い心を守るために、現実から逃げただけなのかもしれない。
それだけ、失った悲しみが大きかった。
その子の名前は、モモ。
ペットショップで、アルバイトのお兄ちゃんと一緒に世話をしていた、リスザルのモモちゃんだった。
その子の死を知ったのは、私がペットショップに行かなくなってから1ヶ月経ってからだった。
ペットショップに行く事を禁止され、半ば親の監視下にあった私は、その日もお母さんの車に乗って塾に通っていた。
有名私立中学にいくための勉強。
いい大学に行くための勉強。
いい会社につくための勉強。
そんな毎日が、あの日から再び始まっていた。
でも、このときの私は、勉強に集中していなかった。
考えるのは、モモちゃんのことばかり。
元気しているかな。
ちゃんとご飯食べているかな。
私のこと、ちゃんと覚えているかな。
そんなことばかり、頭をよぎっていた。
塾の先生や親に勉強のことで注意されても、耳から一瞬にして放出していた。
何かが抜けた日常。
でも、まだ小さな私は、親に従う事しか出来なくて、ただ黙って言う事を聞いていた。
あのときまでは。
ある日、私が学校の帰り道に商店街を歩いていると、偶然にもアルバイトをしていたお兄ちゃんを発見した。
その後ろ姿を見た途端、今まで忘れていた笑顔になって、前を行くお兄ちゃんを追いかけた。
「こんにちは、お兄ちゃん!」
「あっ、桃華ちゃん」
一瞬、お兄ちゃんの表情が曇ったのを、私は見逃さなかった。
でも、あのときの私は、お兄ちゃんからモモちゃんの様子を聞けることで頭がいっぱいだったから、そんなことには気が回らなかった。
「久しぶりだね。風邪はもう治った?」
「うん。この通り、元気だよ」
「そっか…」
「それよりもお兄ちゃん。お兄ちゃんは、これからモモちゃんの所に行くの?」
知らないあまりに、私は残酷な言葉を言ってしまった。
あの人にとっての辛い現実を、無邪気な言葉で引き出してしまった。
でもお兄ちゃんは、そんなことなんて顔には出さないで、作り笑いで言った。
「…あの子は、モモちゃんは、とても優しい人に買われていったよ」
ショックだった。
でも、いつかこうなるとわかってはいた。
モモちゃんは私のペットじゃない、あくまでもペットショップの売り物だって。
いや、売り物なんかじゃない。
人間のエゴで連れてこられたかわいそうな動物たちが、人間の手によって『ペット』という束縛を与えれる、いわば奴隷。
観賞用として、モモちゃんは狭い家に束縛されたんだ。
そう考えたら、自然と冷静になれた。
「そう…」
「だから、もうモモには会えないんだよ」
「…うん、わかった。ありがとう、お兄ちゃん」
「…ごめんね、桃華ちゃん」
最後の言葉を聞くことなく、私はその場を離れた。
それが、お兄ちゃんとの最後の出会いとなった。
親から塾に送られて、いつも通り、平凡に授業を受けた。
いや、このときはさらに悪化した感じ。
モモちゃんがいない。
私の頭の中はそのことで支配されて、何も耳に入ってこなかった。
そして塾が終わって、私が親の迎えを待っていたとき、
「やあ、きみはうちのリスザルを世話してくれた女の子じゃないか」
横から、私が通っていたペットショップの店長さんがやってきた。
人当たりがよくて、モモちゃんも私もなついたほうだと思う。
「こんばんわ」
「はい、こんばんわ。にしても、久しぶりだね。あれ以来来ないものだから、心配していたんだよ」
「すみません。お父さんたちがもう行ってはいけませんと言われていたものだから」
「いいや、いいんだよ。じゃあ、あのリスザルが死んだ事は知らないわけか」
あのリスザルが死んだ。
その言葉が、絶望の音と共に私の頭の中でリピートした。
店長さんが言ったのは、モモちゃんしか該当しない。
優しい人に買い取られたとお兄ちゃんから聞いていた私は、すぐにはそんなことは信じられなかった。
「そ、それって、どういう…」
「あ、ああ。実は、きみが来なくなった翌日に、リスザルはあのバイトの少年が檻の掃除をしたときにリードを噛み切って、外に飛び出したんだ」
「モモちゃんが…」
「それで、外に飛び出して、そのまま電信柱に登って、感電して死んだんだよ。そっか、きみは知らなかったのか…」
私の中で、何かが崩れ去ったような気がした。
それが、今後の人生を変えたことのきっかけになったのは、ここに記すまでもない。
それからの私は、ひどいものだった。
絶望と悲しみが体中に渦巻いて、まだ小さな心を守るための自衛手段として、他人を拒絶することを選んでいた。
親も例外ではなく、いわば不良の道へと走って行った。
万引き、かつあげ、いじめなどは当り前。
その過程で幾度となく警察にもお世話になった。
タバコも吸って、親に見捨てられるぐらいまで堕ちていった。
私がこうなったのも、全部、元をただせば、ペットショップで一緒にモモちゃんを見ていたお兄ちゃんのせいだ。
お兄ちゃんがモモちゃんのことをしっかり見ていなかったから、モモちゃんは死んだんだ。
勝手な言い訳をして、私は無駄に時を過ごしていく。
やっとこの世界から抜け出せたのは、高校2年生のとき。
私があのペットショップの前を通ったら、嬉しそうにペットを見ている女の子の後ろ姿が映った。
その姿が、昔の私と重なった。
モモちゃんを最初に見たときの、あのときめき。
モモちゃんをお世話する事が決まったときの、あの感動。
モモちゃんと接している、あの貴重な時。
どこかに置き忘れたものが、私の中に入ってきた感覚がした。
その子と話をしているうちに、お兄ちゃんへの憎しみも消えた。
お兄ちゃんは、きっとモモちゃんのことをしっかり見ていたんだ。
でも、それでもモモちゃんは死んでしまった。
そのときの悲しみや絶望を感じ取れなかった自分が、すごく情けなくなった。
今の私を見たらモモちゃんはどう思うかと考えると、胸が締め付けられる思いだった。
まっとうに生きよう。
しっかり生きて、もう1度やり直そう。
私はその日を境に、脱線していたレールを元に戻した。
そして現在。
私は大学生になって、自分のやりたいことを、一生懸命している。
でも、1つだけやり残した事がある。
それは、お兄ちゃんに会って、モモちゃんが死んだときの様子を聞くこと。
そして、ありがとうと言うこと。
夏休みを利用して、私は自力で調べたお兄ちゃんの住所の土地へ、夜行で向かっていた。
もう少し。
もう少しで、お兄ちゃんに会える。
私はまだ見ぬ土地で、久しぶりに再会するお兄ちゃんのことを考えながら、これからのことを考えて仮眠を取ることにした。
まさか、昔の私にも再会できることなど、このときの私には想像できなかった。
<続く>