気が付くと、普段と何変わらぬ自分の部屋の天井が、うっすらと開けた目に飛び込んでくる。
すると先程の不可解な体験がただの夢だったと判り、あたしは拍子抜けした。いや、ほっとしたのかもしれない。
夢の中では重苦しかった体と呼吸も、今では単なる眠気の余韻に置き換えられた。
ベッドから起きあがって、ふうっと息をつく。
安堵のつもりだったが、それは落胆の溜息でもあった。
親父と一緒に暮らさなければならない、この現実世界に連れ戻された事に対しての……。
唯一落ち着ける自分の部屋を出て、私は食卓へと移動した。建築してからすでに十年以上経過した木造住宅は所々が痛んでいて、階段を下りるたびにキシキシと物音を立てる。他の家より老朽化が激しく見えるのは、数年前に増築した2階部分が、元々ガタが来ていた1階部分に負担をかけているからだ。
テーブルには、誰もついていなかった。
照明を付けてもまだ薄暗い部屋の中に、黒塗りされた木製の椅子がふたつ。私は『あいつ』が来ていない事に安心して、冷蔵庫から幾つか食べ物を取り出し、自分で調理して食べた。パンと卵焼きなんて、がさつなあたしでも簡単に作れてしまう。
一人で食べる食事には、もう慣れた。物心ついた頃から、あいつはいつも自分の部屋にこもって、普段あたしにロクに顔も見せやしない。でもいつの頃からか、その方が気が楽になった。
あいつの目があたしに向けられているだけで、今ではまるで魔物に睨まれたような悪寒を覚えるのだ。
あたしはもう一度テーブルを見た。あたしの皿の向こうに、もう一つの空の椅子……。三つ目の椅子が無い事にも、もはや何の違和感も感じない。
3つ目の椅子に座るはずだったお母さん。彼女は、あたしを産んですぐに死んでしまった。
あいつはお母さんの事について何も喋ろうとしない。写真も見せてくれない。
だから、顔も知らない。記憶もない。あるのは、あたしが勝手に想像した顔のぼやけた母親像だけ。辛いことがあった時、不意に寂しくなって泣きたくなった時、あたしはお母さんをめいっぱい頭の中で思い描いた。
お母さんはいつでも、あたしの味方になってくれた。想像の中だけだけど、お母さんは誰よりも大切な……。あたしの……唯一の天使だった。
不快な物音が聞こえてくる。
ギシギシ……ギシギシ……
何かが悲鳴をあげているような、軋んだ音を立てて、あいつがこちらにやって来るのが判る。
その音を聞いただけで、あたしの身がすくんだ。
軋んだ音はやがて不規則に床を叩く振動となり、一つの目的に向かってこちらへとやって来る。
あたしに向かって……。
親父は、姿を現すなりドアの側に突っ立ったまま、あたしを睨んできた。
汚れたズボンによれよれのYシャツ。髭はぼうぼうに伸ばしたまま……。昔から身だしなみに気を払うような人間ではない。だがそれがより相手に陰惨な印象を与えるのは確かだ。
「飯は食ったのか?」
親父の太い声が空気を震わせる。あたしは答えるのもおっくうだったが、それ以上にこいつに対する恐れの気持ちが、強制的に口を突き動かした。
「うん……」
親父はずかずかと入ってきて、食卓の近くにある流し台の蛇口からコップに水を注ぎ、ごくごくと飲み始めた。親父はいつも沢山水を飲む。三杯目を飲み尽くしたとき、私は思いきって親父の背中に向かって言った。
「あのさ……親父……。今日、また羽崎さんとこ行って来る。いいよね?」
親父は片手にコップを持った体勢のまま、しばらく黙っていた。あたしも黙って親父の返事を待った。蛇口から出る流しっぱなしの水流の音だけが、この世に時間がある事を主張する。
「勝手にしろ」
親父は振り返りもせずに言った。あたしは表には出さなかったが、内心では飛び上がるほど喜んだ。また今日も会える……。美月と、憧れのあの人に……。
「それじゃあ、今から、出かけてくる! 行って来ます!」
善は急げ。椅子から勢いよく立ち上がって、あたしは部屋から出ようとした。
「ただし……」
それを……。
親父の声が、遮ったのだ。
あたしの脚は、ガクガクと震えていた。震えは脚だけにとどまらず、手、胴体、そして首後ろまで……あたしを捕らえた。
何故、恐怖しなければならない? 自分の父親なのに……。
あたしは震えの止まらない首関節をなんとか叱りつけて、親父を振り返った。
親父は、まだ流し台の方を向いていた。コップを持ったまま、さっきから動いた気配はない。
「ただし、夜までには絶対に帰ってこい」
その親父の声が、またあたしを心底身震いさせた。その言葉が意味する本当の処に、あたしは気づいてしまった。
親父が水道の蛇口をひねった。さっきから流れていた水流の音は止んだ。
全ての音が死に、この時あたしは……時間が、本当に止まった気がした。
そして時が死んだこの部屋に、最後に残った死神のように生きているのは、あたしの体に伝わる震えた関節同士が鳴らす反響音、そして底冷えのする親父の太い声。
「今夜も、俺を楽しませてくれ」
親父は、ついに一度も振り向かずに、あたしが一番恐れていた言葉を放った。
あたしの全身の震えは、もはやひきつけを起こした位に大きくなった。
恐怖で、気が狂いそうだった。
親父がコップを乱暴に置いた音が聞こえた。
その音に一気に弾かれて、あたしは全速力でこの死んだ世界から逃げ出した。